実体験 左半身麻痺硬直
昭和30年卒
広谷光一郎
人の一生の内で「もう駄目か?」と絶望的な一瞬に遭遇することが幾度かはあると思う。
私には今日までに3回の恐怖の経験があった。
1.第三キャンプの星空の夜のこと(1961年5月11日)
最初の経験は1961年5月のことである。大阪市立大学の創立80周年を記念して、ネパールのランタン・ヒマール地域へ、学術調査と、ランタンリルン(7245m)登頂を目的とした遠征隊が派遣された。
構成隊員は、森本隊長以下6名、シェルパ5名、ローカル・ポーター5名、リエゾンオフィサー1名、ポストランナー2名、ポーター108名であった。 計画は順調に進み、5月10日全員が各キャンプの配置に付いた。以下、資料の遭難手記を参照。
(別紙 「手記」)
この時の状況は、冷静ではあったが「もう駄目かと思う一瞬があった。それは数十分間、雪崩の中に閉じ込められていたからである。更に大変だったのが、恐怖のあまり錯乱状態になっている隊員やシェルパを連れて、2000mのアイスホールを下ることであった。
無事BCに下山の後、日本への連絡や負傷者の手当てや態勢の立て直しをしながら、たくさんの石を集めケルンを作り石碑をはめこんだ。石碑に「森本嘉一、大島健司、ギャルツエン・ノルブここに眠る。1961年5月11日大阪市立大学ヒマラヤ遠征隊、日本」と記した。
<大阪市立大学ランタン・リルン登山隊の経緯>
1961年 春 第1次隊
1964年 春 第2次隊
1978年 秋 第3次隊(初登頂に成功)
以降、私はエベレストを始め多くのヒマラヤの峰々に行く機会があったが、ランタン谷に作った墓には一度も行く事がなかった。
一昨年(2003年)春、私は遭難以来43年目の墓参を果し、ほっとした次第である。
2.食道がん手術(1991年1月18日)
二回目の経験は1991年1月の食道ガンの手術でのことであった。
仕事柄、地方講演を関西で行っていた時のこと、夕食時に飲み込んだ大学芋のかけらが“のど”を通過するとき、がりがりと食道内部を引っ掻いたように感じ、気がついたのであった。帰京後、健康診断で撮った食道の写真を丹念に見て、食道中央部に表在型の斑痕があることがわかった。ガン研究会附属病院に於ける再検査は食道ファイバースコープ検査、同時に生検、細胞診など、病理学的検査が行われ、食道中央部にガンの病変があることが明らかとなった。
年末・入院、年初・食道全摘出手術と計画が立てられた。術前の入院は体力計測である。数ヶ月前まで山に登っていた私にとっては造作のないことであった。
手術日は忘れもしない湾岸戦争の勃発した1月18日であった。手術の方法は右側の胸部を開いて食道を切除したあと、食道の代わりになるものを作らなければならないが、それには胃を頸のところまでもっていって、残った食道と胃をつなぐ方法であった。そして、私の場合は胸壁前(前胸部)皮下に挙上する方法であった。すなわち、胸壁前の皮下を頸まで挙上し、次に頸部を切開し、切断した食道の口側を引き出し、つないだのであった。
(別紙2 「食道再建術」)
この方法の利点は手術の安全性と広い範囲のリンパ節をきれいに取ることが出来ること、(私の場合は118ヶ所、内、がん細胞が陽性のものはなく、疑陽性が2箇あった。)また、皮ふから胃に穴をあけて直接チューブを入れ、栄養補給できることなどで、欠点としてはつなぎ目に炎症が起き易く、また、小さな穴があいて食べ物の漏洩が起き易いことである。
この手術は16時間にも及んだ。手術は成功し、ICUに入れられ人工呼吸器で呼吸をするわけである。
この時、私の麻酔は切れ、正気にもどったのであった。
麻酔が切れ、身動きできない状態の中で人工的に呼吸をさせられている時、そのつらさ、その痛さ、生きることのつらさの強制は、麻酔からもどらなかった方が良かったと思う程のものであった。
お蔭で74kgあった私の体重は、以降54kgをなんとか維持しているのが現状である。
その後、偏平上皮がんに関るがんの手術は以下の如く数多く経験したのであった。
<偏平上皮に関る疾患の再建手術>
1991.01 食道がん切除、再建手術
1998.10 吻合部狭窄ブジー後の感染症合併
1998.11 吻合部切除、再縫合手術
1999.01 挙上胃管断端瘻閉鎖手術
2001.02 S状結腸切除手術
2002.02 舌悪性腫瘍切除手術
3.実体験、左半身麻痺・硬直(2005年7月19日)
3回目の経験は今回のメインテーマ、左半身麻痺・硬直(TIA?)であった。分類にあるようにTIAは一過性脳虚血発作のことである。TIAが数回続けば脳梗塞、脳血栓は免れないという実に厭な病変である。
(別紙3 「脳血管障害の新しい分類」)
7月18日、私はエベレスト登山時代からの仲間である長尾先生(整形外科)と永年に亘って計画してきたパキスタンのカラコルムという山群に行くため機上の人となった。地球上で8000mを越える山は11座ある。その内の4座が此々に存在するのである。
K2(8610m)、ガッシャーブルム?峰(8068m)、ガッシャーブルム?峰(8034m)、ブロードピーク(8047m)などである。14時パキスタン航空にて成田空港離陸、出発前までの疲れで、心地よく睡眠に入った。約1時間後、水平飛行となりランチタイムで起された。その時、何の前駆症状もなく、左上肢、下肢に強い麻痺と硬直を起していたのである。離陸時見た外の風景が一寸、2重に見えていたことを思い出した。運ばれてきたランチボックスを右手だけではあけられない。人の手を借りて開けたランチをぼろぼろとこぼす。ワゴン車が来ても左足をどけることが出来ない。隣席の長尾先生に『私、一寸おかしくないですか?』と言ったところ、さっきからおかしいと思っていたと。私は長尾先生に自分は脳梗塞ではないかと話した。
頭痛、胸通、動悸、麻痺の状態など質問の上、脳梗塞の可能性大と長尾先生は断定した。この時点で発作、発見後約1時間を経過しており、北京でおりる手立てをしないと時間的余裕がない若しTIAなら発作後数時間がダメージに関係すると判断、PIAパーサー・ツアーリーダーなどと交渉、北京で荷物と共に2名降りることとなった。数名の人に抱きかかえられタラップへ、ここからは車椅子が準備され、空港内の診療所へ。設備がないためインターナショナルSOSの診療所へ移動、痙攣に対して沈静剤を打った後、救急車で日中友好病院に入った。自覚症状は左手足の麻痺および硬直によるイライラ感が大きなストレスになっていた。直ちにCTスキャンをお願いし、出血のないことを知りホットする。病室で血栓溶解剤を混入した点滴を受け、知らない内に眠っていた。
翌7月19日午後には左手握力がじょじょに回復、夕方には左手足の硬直も柔らぎ上下運動が少しできるようになった。但し、腰痛、頭痛、左ヒザの通風など発症、担当医師はこれに対応してくれた。ここまでの期間、何といっても長尾先生が同行して下さったこと、私自身が喋れた事が臨機応変な対策・行動に大いに寄与したと思った。
7月20日〜24日ストックを持ち、少しずつ歩行できるようになった。
7月25日インターナショナルSOSの救急車でSOS所属のドクターが添乗して空港へ。そして、昼食前、JALにて帰路につく。午後3時半には成田より都立荏原病院へ搬送された。
7月26日〜30日の期間は、原因究明の種々の検査を行った。
<脳血管障害に関る諸検査>
頭部MRI、CTスキャン、胸部レントゲン、脳波、脳シンチ、ECG(24hr)、
ガリウムシンチ造影、腹部エコー、頭部エコー、血液検査
以上の結果、陳旧性脳梗塞(いつ発症したか不明の古い脳梗塞のこと)はあったがTIAなどの新たな脳血管障害を認めることができず、はっきりとした病名は現在ついていない。
思い起こせば機中で突然、何の前触れもなく左手足の麻痺・硬直を発症したときの心境は、半身不随、言語障害etc.で、死というより今後の社会生活について「もう駄目か」と思う絶望感であった。
ともあれ「結果良ければ全て良し」ということでこれからもいろいろな事にチャレンジして行きたいと思う昨今である。(平成17年8月18日)
追記.私にとっての幻の山(平成17年9月16日)
8月29日、「貴君を残して出発するのは心許無いが、お互い年を考えるとチャンスは少なくなる」という言葉を残して、長尾先生は憧れのカラコルムへ再出発されました。そして、9月9日元気に帰国。写真を下さいました。
( 写真 1 )
( 写真 2 )
バルトロ氷河の絶景地(コンコルディア)より見たK2(8610m)の雄姿 (写真 1)(写真 2) 撮影:長尾悌夫
以上