駆り立てられるもの-パート2- 
 和田城志

 高知と大阪の二重生活が始まって三年が過ぎた。去年仕事を止めて無職浪人になり、時間をもてあましている。金がないので旅にも出られないし、90歳になる母の容態もゆっくりと認知症の坂を下っている。ヨットは高知の港に浮かんだままで無駄金を食っている。登山もまったくしていない。冬眠状態だ。

 書くべき原稿も滞って、読むべき資料も苦痛の種、何かしたいことはないか、そう思って去年始めたのがスケッチ。花や風景、静物、そしてたどり着いたのが人物画である。それも断然女性だ。最初は初恋の人だった。現在の彼女を描き、遠い昔の彼女の面影は、小さなクラス写真をパソコンに取り込んで拡大トリミングし、それを参考に物語りを思い、想像の絵に仕上げる。そのうち、他の女にも興味が湧き出し、あっちこっちで知り合った女(若い女を選ぶ己が哀しい)をスケッチした。(何が冬眠状態だ)

面白い。女性は山に似ている。私の目にはシンプルで美しく見えるだけだが、対象は実に複雑で(当然のことだ。人間だもの)、決して思い通りには描けない。特に顔は一ミリ線がずれても、別人になる。よしんばテクニックが上達しても、自分の感じているイメージを描くのは大変難しい。哀しんでいるのか、喜んでいるのか、何を考えているのか、つまり、生きているのか死んでいるのか、人を描かず、人形を描いてしまう。

絵を描くことも山に登ることに似て集中力が大切だ。岩場や雪山での緊張感はちょっと日常ではない集中を必要とする。リアルに命が懸かっているからだ。絵を描くときも、無意識に集中してしまう。驚くほど時間が経つのが早いし、緊張感が途切れたとき、とても心地よい。目的も方法もまったく違うのに、どこか共通点があるように感じられる。

行為に何らかの意図がある。努力や経験は累積される。健康的なひとりよがりであっても、打算や見返りが希薄。結果は明確に示され、期待はおおむね裏切られる。達成感はすぐに不満に転化する。目的は単純なのに、過程は複雑だ。

高校生のとき、苦労して解いた数学の証明をノートによく清書した。数式やら記号がひどく絵画的で、絵を描いている気分だった。山岳部に入ってからは、ルート図や概念図、遡行図が独特な幾何学模様のように思えて、よく描いた。これも一服の絵だと言えるかもしれない。しかし、今描いている絵はそれらとは少し違う。

例えて言うと、雪山のトレースのようなものである。雪黒部で何度も刻んだトレース、残照の雪尾根に、風雪のナイフリッジに刻まれたラッセルの跡、自然のカンバスに描かれた線刻絵画である。あのラッセルの一歩一歩が一筆一筆の重なりに思える。頂上はひとつの完成ではあるが、トレースが風雪にかき消されるように、納得する絵は残らないだろう。それで結構、今はただ、描いてみたいと思っているだけだ。絵を好きになり没頭して、動機とか目的とかが行為の中に埋没してしまう、そんなひとときが欲しい。

私は山が好きだった。今も好きである。理屈っぽいアルピニズムが心を説明する。それは多分正しい。青春の情熱にも郷愁がある。幾多の冒険と危険が私の想いを粉飾する。そうして、山が私を慰める。人形のような山が美しく目の前に広がる。

会報42号に載せてもらった「駆り立てられるもの」の最後に、本当は英文の詩を書いていたのだが、キザったらしくて削除した。英詩にはまって(私はミーハーですぐまねをする)、ワーズワースかイエーツの真似をしたのだと思う。それをここに書こう。

     A mountain

My heart leaps up when I behold the snowy mountain.

So was it when my climbing life began.

So is it now I have given up alone.

So be it when I shall grow much elder.

A mountain is fantastic all of mine.

I wish to be with a dreaming human life forever.

How happy a mountain, I’m looking back on.

Like a first love, it’s stainless on.

私は雪山を見ると心が躍る。山を始めたときからそうだったし、諦めかけている今でも、歳をとっても、きっと変わらないだろう。山はすべてだったと言っていい。そういう夢見がちな人生をこれからも歩みたいと願ってもいる。振り返れば、なんと幸せな日々か、初恋のように穢れない世界だ。少し過剰だが、私の本音だ。

 MountainWomanに変え、snowyprettyに変え、climbinglovingに変えれば、この詩はそのまま使える。こうも書いた。

青春は満たされないものの中に存在する。

青春は三つの言葉で表される、僕、君、恋。

Be it the youth in what is not satisfied.

The spring time of life is able to explained,

Just by the three wards, I, you, love.

振り返ってみるに、山にも初恋にも貢献してこなかった。

A cause of our unhappiness is mine, but a reason of our pleasure is yours.

初恋は成就されないから青春なのであって、youmountainに変えて言えば、確かにそのように思いつめて登ったような気がする。憧れは常に満たされない。

会報には多くのトレッキングや登山、旅の記録が載せられていて、みんな楽しんでいるなあと、羨ましく思う。最近、八千メートル峰をやろうかという記事もあった。まずは意気軒昂、喜ばしい限りである。だけど、なんとなく異質な感じがする。もとより、私は変なのであって、建設的な意見を述べているのではない。何だか変なのだ。

山は初恋で、初恋は憧れで、憧れは満たされない、だから憧れ続ける。それに山は普通名詞で、実は存在しない。六甲山やエベレストはあるが、山と言う名の山はない。同様に初恋も存在しない、初恋の人Aがいるだけだ。憧れは具体的なものに対してあるもので、状況や概念に対してではないはずだ。

絵を描いていて思った。女性を描きたいのではなく、好きな人を(興味深い人を)描きたいのである。山だってそうだ。最初ふるさとの裏山だった。四国の山だった。エスカレートする。山を抽象化する。理屈と動機付けが始まる。そして具体的な山とまた出合う。私の場合、それがナンガ・パルバットだった。8125m世界最高難度の山、幾多の命を飲み込んだ裸の山、私の三度に及ぶ熱いラブ・コールにも応えてくれなかった。ナンガ・パルバットは初恋の人であり、ふるさとの山であり、憧れ、見果てぬ夢、満たされない青春なのだ。

私は雑誌で、アルピニズムについて常々書いてきた。その真髄は、より高く、より遠く、より困難な対象を選ぶことだと。低い山、近くの山に価値がないと言う気はないが、易しい山に価値(魅力)を感じない。

以前、文部省の登山研修で講演して、高所登山の実践と課題と言うテーマで小文を書いたことがある。その中で、「アルピニズムの真髄とは、高さ-不快な低酸素に耐え、遠さ-不便な生活を厭わず、岩壁-不安な日々を過ごしながら、時季-不利な季節を選んで、結果不満の中で遭難する行為である、と言える。アルピニストは不を好む不可解な奇人ということになろうか」と吐露した。また登山を構成する条件として、いくつかある山側の要素を容易から困難に分類し、登山方法の選択を有利から不利に分類した。そして、その組み合わせで、登山の難易(つまり優劣)ランキングを示した。

私の頭の中では、風光明媚や快い汗は登山の当たり前すぎる条件であって、目的ではないのだろう。山岳部はそのことを教えたし、そのことに憧れた、山岳部の山は初恋でなければならないと思う。ああ、山岳部の山は窮屈だ。私にもいつか、当たり前すぎる条件を満たすだけの登山をするときが来るだろうか。そのときはきっと、これは登山ではなくハイキングなのだと、屁理屈を言いそうな気がする。

以下の文意に女性蔑視はないつもりだが、下司な男のたとえ話にご容赦を。

高さ=八千メートル峰、高級ブランド品に身を固めた有閑マダム。

遠さ=僻地、政治的理由の処女峰、無垢を装った初々しいグラビアアイドル。

困難=見果てぬ岩の高峰、美しい孤高の初恋、今は人妻。

てな具合で山の品定め。流行の言葉で言うと、山岳部の品格にあった山とは何か、と言うべきか。蛇足に草鞋を履かして言うと、高さや未踏にこだわらず、好きな山を突き詰めるということ、個性的に自分とかかわりのある山、初恋に戻れと言うことである。昔とは違う。現代は情報も経験も溢れるほどある。ヒマラヤはより高き、より困難を標榜できる対象ではなくなっている。今こそ、いかに登るかを問われる時代なのである。大衆化とは好奇心の否定である。山の好みを考えるときに八千メートルの線引きはちょっと悲しい。好きな個別の山が結果的に八千メートルであれば、異議はないのであるが。

参考にはならないが、私の好きな山は以下のとおり、昔も今も変っていない。既に登ったカンチェンジュンガとマッシャーブルムを除くと、ダントツにナンガ・パルバット、それ以外ではG?「、ラカポシ、クンヤン・キッシュ、サルトロ・カンリ、クングール? 、ナンダ・デビィ、ナムチェ・バルワ、ガンケール・プンズム、K2である。山には何となく登るということがまだできない。駆り立てられる何かが必要だ。その何かが分かっているつもりで、また分からなくなるから厄介なのだ。やっぱり、初恋の人に似ている。

初恋の人は中学生の面影そのままなのに、男と生活苦でやつれている。その人の不幸と私の劣等感がようやくつり合って、初めて対等に言葉を交わせるようになる。海辺の安宿で不倫、晩秋の陽射しに過去を悔やむ。そんなことを夢想したのに、現実はやっぱり現実。あの頃付かず離れず身近にいて憧れていた幼なじみは、今も美貌に翳りなきマドンナで、立派な家庭を築いている(せめて夫が私よりメタボであってほしい)。勇気を振り絞って、四十年ぶりに会ってみたが、力関係に変わりはなく、ああ、萎縮している自分が情けない。

いつか訪れる彼女の不運と陰ながら手を差し伸べる魂胆丸見えの私、夢想は妄想の域を飛び越えて、無職の男は根拠のない楽天家に墜ちて行く。山も女も空想家には見果てぬ夢なのだ。ナンガを想って山を考えるように、彼女を想って初恋を描いてみようかなあ。