Because it is there.

小林 深(1960年卒)

↑残照のエベレスト

マロリーの遺体発見される・・・というメールを藤本先輩から頂いたのは昨年の6月頃でした。マロリーといえば、一般にはエベレストを目指した登山家としてよりも、"Because it is there."という名言を吐いて一躍有名になった人である。
我々は何によらず自分の行為に理屈をつけたがる癖を持っている。「そこに山があるからだ」の逸話は、その象徴として有名になってしまった。理由づけをし、意義を見つけだし、納得しないと力が入らない。たとえば企業であっても、ものを生産する意義をみつけだし、納得して、そこから理念や基本方針を作り上げないと逆境に負けない強い体質が作れない。もっと極端な例では、生きる意義が見い出せずに命を絶ってしまう人まで出てくる。また、私のように道楽で写真を撮っていても、写真は芸術か、山岳写真と風景写真とは何が違うのか・・といったことを次々と考え、自分なりに納得しないことにはどこか落ちつけない。
このように、人が自分の行為に理由づけしたがるのは、人間なるが故の本能である。実は、そこには人間の脳にのみ存在する脳神経学的理由がある。
もともと生物の脳は、生きてゆくための行動の評価判断器官として進化発達してきた。食べられるか食べられないか、逃げるか戦うか、といった生命維持のための判断器官であった。その能力の劣る個体は、淘汰されてしまった。脳は、本質的に評価判断器官なのである。
ところで、よく知られているように、人間の大脳は左右二つに分かれ、左脳の中心には言葉をあつかう言語中枢がある。これは、およそ250万年前に系統発生的進化として現れ、以後進化を重ねるたびにこの部分が発達して、今日のように自在に言葉をあやつれるようになった。もともとあった動物としての直感的認識や判断能力は、その結果右脳にのみ残ってしまい、単純にいうと、左脳は言葉をあやつる言語脳、右脳は言葉を介さず直感的に判断する直感脳ということになってしまった。
左脳のあつかう言葉は、単語を無秩序に並べても作れない。本質的に論理構成が必要である。その結果、言葉の発達とともに左脳は論理的能力を高度に発達させることになった。評価器官としての左脳は、言葉を用いて論理的に評価し、判断を下すようになっていったのである。それが、左脳の役割となった。
さらに、我々の自意識は、言語を介して作られていることが知られている。つまり、我々は自分自身を言語世界に写像して、自意識化しているのである。つまり、言葉により自意識を持ち、常に自分の行動を客観視し、評価するようになってしまったのである。この結果、納得できる評価が得られない行為に対して、疑問や抵抗を感じるようになってしまった。
ところが我々は、時として何故か、そうした理性で十分に説明できない行為に夢中になってしまう。危険をともなう登山などは、その典型である。つまり、自らの生存に関係ない行為、時にはそれを危険にさらす行為にすら夢中になってしまう。
その多くは、暗黙知の次元(自覚できない意識)から創発された行為として説明されている。そこから出てくる、感情、意欲、意志、欲望・・・その結果としての行為は、もともと理屈(理性)から出てきたものではないのである。しかし、その行為に対しても左脳はむりやり理屈をつけたがり、説明と評価を要求してしまうのである。その結果、我々の理性は、それを十分に説明しえないところに追い込まれてしまう。
古代ギリシャ時代以来、哲学者達を悩ませ続けてきた「人間が生きる目的や価値」も同じである。もともと目的や価値が存在して、人類は生まれてきたワケではない。であるが、人間が生存している限り、左脳はその理由を要求してしまう。なかったモノを要求するのである。だから、哲学者達は苦心惨憺してそれを作り出さねばならないハメになっている。
このように、言葉を持ってしまった人間は、全てを言葉で(理性で)、評価し判断しなければ安心できないという、責め苦を背負って生きなければならないことになってしまったのである。それがアダムとイブの犯した、罪と罰であろう。
しかし、好きで、面白くて、のめり込んで、燃え上がって、陶酔している人・・心身一如・心芸一如の世界に居る人・・に理屈は要らないだろう。マロリーに理屈は要らなかったのである。"Because it is there."で十分であったのだろう。
もし、言葉を忘れることが出来れば、誰しも「心身一如」の世界にたやすく入れてしまうだろう。残念ながら我々の脳構造は、さきに述べたように心身二元的に構成されている。言語脳を、むりやり押さえこんでしまわない限り、「心身一如」は難しい。要するに、左脳の要求にしたがって理屈で考えている限り、「山がそこにあるからだ」という至高の境地には到達できないということである。
ということは、あんまりヤヤこしく考えないで、素直に山を楽しんでるのが一番エエということになるのである。

補遺
 マロリーが「そこに山があるから」と言ったのはニューヨークタイムスの記者に同じ質問をまたも質問されたからであった。なぜエベレストに登りたいのか、もう何十回も質問された挙句のことで、こう云った切り捨てるような言い方をしてしまったらしい。とっさに言ったこの言葉が、彼の気持ちを一番端的に表していたのであった。
 別の機会に、ある新聞記者がマロリーの言葉として発表している内容は「世界最高峰に登る事に「効用」なぞ皆無である。ただ単に、達成衝動を満足させたいだけであり、この先に何があるか目で確かめたいと言う、押さえ切れない欲望が、人の心の中に脈打っている。地球の両極が征服された今、ヒマラヤのその強力な峰は、探検者に残された最大の征服目標である。」 と言うことで、これがマロリーの公式回答であった。やはり、マロリーには「押さえ切れない達成衝動」以外の理由は必要なかったのである。それを感じない普通の人々には、命をかけてエベレストに登る人の気持ちが理解できないのは仕方ないことであろう。
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