四光峰を支えてくれた人
佐藤 一良
大阪市大山岳会のホ−ムペ−ジに四光峰の記録を掲載しなければと思いながら5年近くが過ぎてしまった。 何度か取り掛かったが一度報告書の形で発表したものを書き直すのが億劫でとうとう登攀隊長の武部君にバトンを渡してしまった。
日本経済がバブル景気に酔い痴れた1989年に四光峰に登り15年が過ぎようとしている。 当時25歳の若手隊員が40歳になる。 沢山の方達のお世話になったが歳月の経過とともに多くの方が亡くなられた。 登山の準備中陪席させていただく度にその決断力、見識、好奇心に接し大きな喜びと刺激を受けた事を記しておきたい。
1987年の初春、大橋会長・泉最高顧問・岡本氏が毎日新聞の佐藤茂氏と会食した時に大阪市制100周年の1989年に海外に登山隊を送ろうという案がでた。
これが四光峰登山のきっかけであった。 梅田にあった大阪腎臓バンクに突然電話で呼び出された私はてっきり名古屋から帰阪した畏友後藤君の妻君の就職の件と考え準備をして訪問した。 話はヒマラヤに登山隊をだすので隊長を引き受けろという途方もない事柄であった。 多分何をいわれても断れない先輩が一人や二人いるはずで、私にはカンジロバ登山の時から親しく謦咳に接する事ができた泉さんはそういう人であった。会社も家族もどうでも良くなった。
泉さんは既に体調をくずされ登山隊の実行の指揮は大橋会長が自らとられた。幸運にも頂上に6人の仲間が立ち、泉さんの持論である「皆揃って帰って来い」を実行できたとき大阪空港に出迎えに来て頂いた泉さんの眼に涙を認めた。登山が終ったと心から感じられた。
大阪大学山岳部出身毎日新聞の佐藤茂氏は活力を秘めた一線のジャ−ナリストであった。 春の高校野球シ−ズンは甲子園が終るまで好きなお酒を断って活動されていた。 選手も監督も野球部部長も真剣に試合に取り組んでいるという理由であった。 亡くなられてから私の親しい友人の従兄弟であった事がわかり一夜偲んで痛飲した。
牧内栄蔵氏は1988年当時クラボ−の会長をされていた。 名門紡績で頂点を極められただけに誠実で重厚な方であった。 果断な決断力の速さと偏見のない判断力は素晴らしく関西財界からの浄財をお願いするのに敢然と迷うことのない人であった。 大橋会長と共に神戸ゴルフ倶楽部、倉敷カントリ−クラブで日本酒を楽しみながら上手くないゴルフに興じた事が懐かしい。
伴野智彦氏は蝶理からイオングル−プに移られた方で登山隊の備品調達にご尽力願った。 ジャスコの店頭から必要な物を選び手書き書類でお願いしたところ突き返され、矢倉さんがワ−プロで打ち直して再提出した事が思い出される。 いったん腹に入ると早速ジャスコ内に専門チ−ムを編成していただきお願いした全ての商品を集めていただいた。
大橋会長との打ち合わせは何時も新阪急ホテル地下一階のバ−で水割りを間において行われた。
依田恭二教授は輝くばかりの好奇心と童心を持ち続けられた方であった。
ヒマラヤの南と北で植生がどう変わるのか幾分恥じらいをみせながら楽しそうに話される姿は門外漢の私も引き付けられる魅力的な方であった。
学術班隊長として青海省からチベットまで長躯調査され、帰国後滋賀大学設立に尽力されていたが突然の訃報に接した。 依田先生が書かれた追悼文に「泉さんはいま、あのヒマラヤの青いケシになっているに違いない。小さくて、硬くて、刺だらけで、ヤクにも羊にも喰われず、いくら踏み付けられてもヘッチャラで、時が来ればハッとするような鮮やかな花を咲かせる青いケシになっているに違いない」とある。 先生もまたチベットの青いケシ。
四国愛媛の八幡浜に塩崎宇宙氏(本名)がアトリエを構えておられた。 子息が大阪市大を卒業された縁で四光峰のレリ−フを作製していただく事になり一夜訪問した。 漁師町のカラオケで古い歌を聞いて翌朝アトリエを訪ねた。彫刻家のアトリエは倉庫を改造した殺風景な空間であった。 北村西望門下と聞いた。 みかんと漁業の町で悠々と一人暮らしをされているようにお見かけし話したところ、いやいやドロドロしたものですと答えられたのが忘れられない。
大阪で会食の機会があり、泉さんと同年で同じ幼稚園に通っていことがわかり70年ほど昔にタイムスリップしてしまった。 先生の作品は市大にあるレリ−フ以外に大阪難波のスポ−ツタカハシの正面にフエア−プレイ像が設置されています。
中国登山協会に四光峰登山解禁を働きかけてくださった今西寿雄氏、絵を良くされた会友の谷利正典氏も亡くなられた。 我が身の未熟さを戦慄しつつ、素晴らしい先輩の方々の足元に這い寄るべく遅々たる歩みを続けて行きたい。