SPORTS 健康学 「登山」
「日経新聞土曜日版」著者はスポーツドクター・医学博士 塩田純一
元気な中高年登山者を山で見かけることが多くなった。登山は自然を楽しみながら、都会生活で陥りがちな運動不足を解消し、コレステロールや中性脂肪を下げる働きがある。しかし、ひざを痛めたり、脳卒中になったりする恐れのある中高年は体の仕組みと働きを考え、遭難や事故の原因となる筋肉疲労や体調不良にならないように準備しなければならない。
筋肉疲労は筋肉での酸素不足により乳酸がたまることに原因がある。酸素不足がなければ疲労は簡単にはやってこないので、筋肉に酸素が十分に行き渡るよう工夫すればよい。
最も陥りやすいのは、心がはやる登り始めのオーバーぺースである。いくら念入りに準備体操しても毛細血管が十分に拡張されたと考えるのは早計だ。サッカー選手や野球の投手のウオーミングアツプを思い出してみるとよい。筋肉の毛細血管が酸素を大量に取り込むまでは、一、二時間かかる。その間はウオーミンアップのつもりで、呼吸を整えながらゆっくり登るのが基本である。
使い憤れない筋肉は使わないのが原則だ。私は手を使って登ってはいけないと教えられてきた。足の筋肉は長時問の使用に耐えられるが、手を使うと疲れが出てしまう。ゆえにストックに頼って登ると疲労は倍加すると考えたほうがいい。ストックは下りでバランスをとったり、ひざを衝撃から保護するために使おう。
ただ、足も、普段より高く上げたり、大きく一歩を踏み出すと疲れが早くくる。筋肉を鍛えているスポーツ好きの人でも、余計な筋肉を使ってかえって疲労しやすいことがある。細かい歩幅に分けて登れば、足を余分に持ち上げたり、つま先を大きく上げたりしなくて済む。
靴は軽くて丈夫なものを選び、岩や木の根など固い部分を選んで歩く。柔らかい砂や泥の上を歩くのはエネルギー消費が五割増しになるので避けよう。
山では多くの酸素を必要とするので効率的な呼吸が重要だ。通常、我々は一回に五百t程の呼吸を、胸郭を広げる胸式呼吸で行う。ところが一回の呼吸量を倍以上に増やそうとすると、呼吸のために使われる筋肉エネルギーが増大して効率が悪くなる。そのため運動時には、筋肉エネルギーの増大を抑えられる腹式呼吸が推奨される。
腹式呼吸は横隔膜を上下することで肺を広げる呼吸法だ。息を吐きながら手でおなかを押し、息を吸いながらおなかで手を押し出すと手会得しやすい。うまく出来ない人はあおむけになっておなかに一、ニキロの重りを載せ、それを上下しながら呼吸する練習をすると良い。
また、息を吸うときは鼻から、吐くときは口からが基本だ。鼻の中は湿潤な粘膜と豊富な血流の静脈、細かい繊毛からなり、山の乾燥した冷たい空気を加湿・.加温する。
息を吐くときに口から一気に吐くと肺の中に空気が残り効率が悪いので、唇の上下を横に広げて合わせ、抵抗を付けながらゆっくり吐くと効果的である。実際に喘息(ぜんそく)や肺気しゅなどの患者の呼吸状態が悪く、薬を使っても改善しない場合、腹式呼吸で乗り切るように、一晩中おなかに手を当てて呼吸を助けることが何度もあった。
呼吸で取り込まれた酸素は血液により心臓から末しょうの筋肉に運ばれる。このとき貧血があると運ばれる酸素が滅ってしまうので、それを補うために心拍数が増加する。貧血でヘモグロビンが七グ゙ラムデシベルの人がある運動をすると脈拍が毎分百五十以上になるのに、貧血を治療して十四グラムデシベルになると、.脈拍は百十ぐらいにしかならない。
脈拍は百八十から年齢を差し引いた数、五十歳なら百三十を超えた運動を続けると負損が大きいと言われる。貧血は限界を早めるので、治療してから登山を始めたほうがよいだろう。
山で動けなくなる原因の一つに、急性の低血糖によるエネルギー不足がある。これはシャリバテ(シャリはご飯のこと)と呼ばれ、キジウチ(トイレ)と同様に登山者仲間の隠語の一つである。
我々は通常、一日千八百-二千キロカロリーのエネルギー量で生活しているが、山登りは結構ハードなスポーツで一日五干キロカロリー前後を消費する。人の体にどのくらいのエネルギーが蓄えられているかに個人差はあるが、脂肪として一カ月くらい飲まず食わずで過ごせる量の八万キロカロリーが体の各所にある。
それなら一日や二日歩いてもエネルギー不足に陥ることはないはずだ。しかし、たっぷりある脂肪も、"たきつけ役"の炭水化物がないと燃焼できず、エネルギーには変換されない無駄な"油"になってしまう。
ところが炭水化物の貯蔵量は意外に少ない。糖の一種であるグリコーゲンとして、肝臓に千五百キロカロリー、筋肉に五百キロカロリー貯蔵されているが、それだけでは山登りをすると午前中になくなってしまう計算である。
そこで登山に向けて、食事の内容を考える必要が出てくる。登山当日の朝食には、ゆっくり吸収されるうどんやパンなどのでんぷんをとる。脂肪を燃やすための糖が少しずつ補給されるからだ。行動中は、すぐ吸収されるアメなどの蔗糖や果物の果糖などを食べるのが最適と言える。
運動当日に脂肪やたんぱく質などをあえて多くとる必要はない。特に注意が必要なのは、疲労した時。栄養のことを考えて無理に高カロリーの脂肪やたんぱく質を摂取すると、下痢などの原因になることがある。
病院に救急で運ばれてくる低血糖患者はインシュリンなど血糖を下げる薬を使っている人を除くと、肝障害の患者が最も多い。これは肝臓にしまわれている糖が少ないからだ。飲酒や肥満で脂肪肝と書われている人は、脂肪が多い代わりに貯蔵されているグリコーゲン(糖)が少なく、早く低血糖に陥りやすい。
シャリバテになりやすい人は登山の十日程前に激しい運動をし、その後三日間たんぱく質と脂肪中心の食事をとる。それから普通の食事に戻すと、.グリコーゲンローディングといって炭水化物が多く貯蔵されエネルギー不足になりにくい。
暑さのために体の動きが鈍ってしまい、時には命にかかわるものを熱中症と呼ぶ。暑さを感じるときの体温調節は汗によるしかない。汗が蒸発して気化熱が奪われることにより体温を下げているからだ。
何らかの原因により汗が出ないか、汗が出ても気化しない状態で運動を続けると、体温を調節できなくなり、熱中症になる。前者の主な原因は脱水で、後者は高湿度によることが多い。
暑い夏山では一日に二、三リットルの汗をかくことは珍しくない。発汗に見合うだけの水分摂取ができなければ脱水症状に陥ってしまう。夏山では朝に十分な水分を取ってから出かけ、途中でもこまめに補給するよう一日の水分摂取計画を立てて行動する必要がある。
それでも食欲低下や下痢があれば脱水になってしまっているので、食事がとれなかったり下痢をすると、水を飲んでも脱水は進む。
また、湿度が高いと汗が気化せず、いたずらに流れるだけで体温を下げられない。アメリカンフツトボールやラグビーでは、気温と湿度により練習の時間や強弱を細かく決めている。高い湿度で激しい筋肉運動をすると筋肉からの発熱を下げきれず、熱中症になりやすいからだ。かんかん照り
の稜線歩きもさることながら、うっそうとした高湿度の樹林帯を登っているほうが熱中症にかかりやすい。
一方、冬は寒さから身を守るために、熱の産生源である脳と肝臓を第一に保護しなければならない。脳と肝臓で産生された熱は動脈の血液に乗って全身に運ばれる。従って、動脈が体の表面を通っている頭、首、わきの下、ももの付け根、ひざの裏、足の甲などの部位も保護する必要がある。
動脈には寒冷血管反応と呼ばれる働きがある。体温が下がると、凍死しないように手の動脈がいったん収縮して手の血流を減らすので、手の温度が下がる。そのままだと凍傷になるので、その後は動脈が拡張して血流を増やし、手を凍傷から守るように働く。
このように凍死と凍傷は表裏一休の関係をなす。凍傷の予防に血管拡張剤を内服することがあるが、これを使うと凍死しやすくなる。アルコールも未しょう血管を拡張させて体温を下げる働きがあるので、寒いところでの飲酒は危険である。