北海のかなた南洋の果て
和田 城志
去年の夏、ヨットを経験した。そして、初めて∃ーロツパの土を踏み、ノルウエ−を旅した。今年は、念願のヨットを手に入れた.SK31、中古のボロ船だが、銘艇の誉れ高い、頑丈なセーリングクルーザーである.神奈川県油壷から泉州二色ハーバーまで四日か
けて回航してきた。まだ夢想の域からは脱していないが、山から海へ転身しようかと思っている。そう思い立ったのは、土佐の海べり育ちで潮の香りが恋しくなったのが第一の理由であるが、ハロルド・W・ティルマン(1898〜1977)の伝記「高い山、遙かな海」を再読して、以前とは違った感動を得たことも大きく作用している。山馬鹿の役得か、世事には疎いが法螺話にはことかかない。
指標はティルマン
ティルマンは市大山岳会にかすかな関係がある.彼による戦後すぐのランタン谷の踏査記録は、故森本嘉−OBたちに大きな影響を与えたはずだ.また、シプトンを介してギャルツェン・ノルブとも交友があった.世に探検家、登山家と言われる偉人はあまたいるが、ティルマンの生涯ほど勇気を与えてくれる者はいない.青年期の孤独なアフリカ農場開拓と挫折、シプトンとの出会いと登山開眼、1936年のナンダ・デビィ初登頂、パルチザン・レジスタンス活動、中央アジアとカラコルム探検、ヒマラヤ初登頂時代との決別、そして、終の住処、小型帆船による海洋探検は、放浪の生涯のすばらしい幕引であった.意外だと思われるだろうが、彼の探検活動の半分は高緯度海域の航海である.グリーンランド周辺、・南氷洋の孤島、限りなく極地に近い島々を探検している.彼が普通の船乗り・ヨツトマン、海洋学者と異なる点は、海にあっても常に登山家であり続けたことだ。南太平洋クルーズというような暢気な航海ではなく、無人島の未踏峰を求めて、記録の少ない氷雪の海を探検した。北極で誕生日を祝おうとしたが、季節が合わず南極に転進、フオークランド諸島に向かう途中で、行方不明となる.享年79歳だった.
彼は何事においても晩生で、登山を始めたのも(年下のシプトンを生涯、登山の師と仰いだ)、 第二次大戦の参戦も(彼は予備役将校でありながら、若者に交じって、落下傘部隊を志願している)、航海術の習得もかなり年をとってからだった.頑固一徹が災いしたのか、なんとなく回り道の多い、要領の悪い生き方をして来た男だ。シャイな女嫌いで、かといってゲイの傾向はなく生涯独身、ストイックな無神論求道者とでもいおうか.無口で無愛想、裕福ではあったが、およそ贅を凝らすということのない生活であった。
ティルマンは何故、海に向かったのだろうか.僻地好みの彼にとって、地球の七割が海であり、その究極の無人地帯にこそ未知が潜んでいる、と信じたからか。彼の魅力は常に
その動機のシンプルさにある。探検家、登山家、航海者としての彼の功績があまりにも華々しいので、何か大げさな目標や理念を想像しやすいけれど、中身は実にシンプルで分かりやすい。厳格な行動規範と感情移入を廃した簡潔な文体からは、彼が放浪癖のあるロマンチストだとは見えないかもしれないが、それこそが逆説であって、本物のロマンチストは行為に生き、修辞粉飾を好まないものだ。
彼は常に出遅れてきたとも言える.歴史的探検と冒険パホーマンスのはざまにあって、探検をするのには落ち穂拾い的であり(我々にとっては十分すぎる輝かしいフィールドではあるが)、地理的探検としての未踏峰登山よりもスポーツ的冒険としての処女峰登頂に重きをなす時代では、知的で歳をとりすぎていた.組織的集団登山より個人的小人数登山を好んだティルマンは、エベレスト登山隊の隊長に推薦されていたのに、前人未踏の世界最高峰に背を向けて、海に向かう.彼の存在が、故に一つの権威、名誉と言ってもいいく
らいなのに、彼はそういうものを最も嫌う.名を取らず、静かに山や海に対時する姿は最
高にかっこいい。質実剛健、重厚長大の古武士然としたナイスガイ、若者に交ざって、探検航海のキャプテンとして、時にはクル―として、黙々と労務ともいえる船乗りの日々を過ごした。
彼は読書家だったから、きっと登山や探険においては、ウインバーやヤングハスバンドに影響されたように、海においては、スコットやシヤクルトンの極地探検に憧れていたに
ちがいない。彼は大英帝国のパイオニア−たちの血を濃厚に受け継いだ男であった。スコットの南極での壮絶な遭難死やシャクルトンのエンデュアランス号遭難からの生還劇は読む者を圧倒する。しかし、同時代には英国のみならず、北欧にも、いや北欧にこそ優れた探検家がいた。ノルデンショルト、ナンセン、アムンセンらである。ティルマン少年は、英国が極地探検の競争に破れて行く様を、目の当たりに見ていたはずだ。彼の晩年の目標がこれら北欧の探検家の影響を受けていたことは間違いない。
憧れのノルウェー
私がティルマンの伝記と共に大きな影響を受けた著書は、南極点到達(アムンセン)、世界最悪の旅(チェリーガラ−ド)、フラム号漂流記(ナンセン)、ユア号航海記(アムンセン)、エンデュアランス号奇跡の生還(シヤクルトン)、実験漂流記(ボンヴアール)、海洋の人類誌(ヘイエルダ−ル)などである。
私をノルウェーに誘ったのはティルマンとこれら海の男たちである。わずか二週間の旅であったが、北欧の自然と歴史を堪能した。かすかな縁の友人たちの歓待にも感激した。
旅の目的は、フラム号、コン。チイキ号の実物を見ること、沿岸定期周航船によるフィヨルドの船旅、そしてスカンジナビア半島最北端の岬ノール。カップを訪れることであった。旅の目的は120%満たされた。
知人(東京在住のノルウェー人、イエンス。ウルヴォイ)の友達というだけの緑で知り合ったべ一夕一(物静かな小学校教師、27歳独身)のお陰で、オスロの休日はじつに実り多い観光になった。深夜のオープンカフェでの語らい、静寂の石畳、成熟した大人の街
だと思った。治安は非常に良い、飲み歩いて午前様のホテルへの帰路、物々しい武装警備はイスラエルとアメリカ大使館のみで、警官の姿はほとんどなく、無人の公園を歩くのもまったく不安はなかった。ナチスに占領はされたが、戦火に会わなかったという市街は、18世紀の建物が現役で立ち並び、巨樹の並木がうっそうとして何とも品がある。驚いたのは公共交通網の素晴らしさだ。空港ターミナルや駅のプラットホームに自転車が行き交い、
バスも地下鉄も路面電車にも自転車、ベビーカーの駐車スペースがあって、乗り入れは自由だ。なにかにつけゆとりがあり、たたずまいが優雅だ。国土面積は日本と同じなのに人口は800万人、日本ではこのような住環境は永遠に訪れないだろう。
郊外にある彼の実家の農園の美しさは言葉に尽くせない。ゆるやかな丘陵と滔々と水をたたえた河の流れ、点在するレンガ色の民家が見事な原色の風景を割り出していた。村のビユーポイントだと言って、連れて行かれた所は中世の教会跡だった。白夜の暮色に沈むその廃墟に老夫婦がたたずんでいた。平穏という一幅の絵画を見る思いだった。グリーグの組曲のなかにあるソルペイクの歌が耳奥に響いた。
ローフオーテン諸島にあるウルヴォイ家の皆さんには二度と経験できない贅沢を頂いた。
彼らの所有する無人島(周囲5キロ程、地図にはウルヴォイ島とある)でのサマーハウスは自在に明滅する星屑に囲まれて、正にメルヘンであった。背後には懸垂氷河を戴く岩山、鏡のような濃紺の海、川のような狭い海峡で、イルカを見た。時々は鯨も現れるというから驚きだ。妻と二人のいきあたりばったりののんびり道中、ヴァイキングの古郷はクルージングもフィヨルドも、最果ての漁港も美しかった。静かな北欧の大自然を満喫した
北の船乗り−本物の男たち
私が最も感動したのはフラム号だった。かのナンセンが北極海漂流で使い、そとてアムンセンの南極点初到達を成功に尊いた世界の至宝である。(頑丈なだけのボロ船だけど)、
フリチョフ・ナンセン(1861〜1930)、極地探険家、オスロ大学教授、海洋生物学者、初代駐英大使、国際連盟の軍縮委員で人道主義者、ノーベル平和賞受賞、ノルウエーで最も尊敬されている偉人の一人である。これほどパーフェクトな人間も珍しい。、彼の関わった全ての分野で一流の業績を残し、体力、知識、リーダーシップ、知的好奇心、人間的徳性、社会的地位、名誉、全てを兼ね備えた男である。(これで愛人に恵まれていたら、怒るで)
彼の発案で建造された木造帆船「フラム号」は特異な船体構造をしていて、北極海や南極海の氷圧にも耐えることができた。今、オスロ郊外の海べりに、博物館として現物が保存されている。北極海でのフラム号漂流(1893〜6)は壮絶な探険である。特に、凍り漬けになったフラム号の漂流コースが北極点を通過しないと判って、犬ゾリと力ヤックで極点アタックをする所は圧巻である。船を離れてたった二人、生還できると本気で考えていたのだろうか、壮絶な冒険だ。山岳会の諸氏にこの漂流記はぜひ読んでもらいたい。
極地探険記を読んで気づかされたことがある。空間的広がりと時間的奥行きとでも言おうか、そのスケールの大きさに驚かされる。我々の日々の尺度がいかに箱庭的であるか、思い知らされた。中小企業の労働者が休日家族旅行を考えるとき、せいぜい二泊三日の温泉巡りで日々の疲れを癒そうとする。一部上場の大企業の中堅幹部が長期休暇を取ろうとするとき、二、三週間のヨーロッパ周遊で嫁さん孝行の点数稼ぎをする。実直アルピニストがヒマラヤを夢見るとき、退職覚悟でニ、三ケ月の休暇願いを出す。人間の考える遊び(労務ではないという意味で)の規模はせいぜいこの程度のものだ。世間から見て、とんでもなく長期の山行を持続して来た私でさえ、冬山計画はニ、三週間、ヒマラヤでも最長九ヶ月も行って来たら、変人扱いされる。
空間的広がりとなると絶望的にせせこましい。温泉の行動範囲はバス停か駐車場から歩く距離ぐらいだし、ヨーロッパツアーは飛行機か車の点と線の名所巡りで、面の広がりはほとんどゼロと言っていい。ヒマラヤにしたところで、キャラバンが少し広がりを感じさせるぐらいで、BCに入れば、山の中を上下するだけで、一種の大自然引きこもりと言えなくもない。それだけ濃密な行為とも言えるが、とにかく活動面積は広くはない。かつての極地探険は違う。第一に本国から目的地までの航海がある。地球を半周するのだから半端じゃない。目的地に着いても、極点までの距離が長く、出発を早春にするため、準備期間として越冬せざるをえない。結局帰国までニ、三年の計画となる。ヒマラヤはメートルで表すが、極地は緯度(海里、マイル)で表す。ナンセンの北極横断漂流計画は5年間であった。13名の隊員と犬、5年間の食糧と燃料、あの狭いフラム号の船室で越冬漂流する気分は想像を絶する。彼らの時間感覚、距離感覚は驚嘆に値する。
私といえば、豪雪に7日間の沈殿をするだけで恐怖にかられ、黒部横断を目論んで、はるか彼方の剱を絶望的に眺める。彼らは、7ケ月の越冬沈殿をし、乱氷打ち重なる氷原の方、視界にさえ捉えられない極点を希望して眺める。この感覚の違いはどこからくるのだろう。ノール・カップに立ち、白夜の北極海、その茫洋たる広がりを眺めていると、何なく彼らの感覚に近づけるような気になった。荒涼とした不毛の崖が海に落ち込んでいる。夏でこれだから、涼てつく冬の暗闇はどのようであろうか。この海、この岩の大地で狩りをして命をつないできたノルマン人、ラップ人の生活は我々の想像の圏外にある。
極北の氷海を彷徨うナンセンらが、白熊一頭を捕獲し、これで2ケ月は生き延びられる、
陸地がきっと近くにあるはずだと喜ぶ、そんな状況が想像できるだろうか。高峰登山ではタンパク質より炭水化物が有効で、乾燥植物繊維やビタミン剤が必需品などと考えている
我々に、残った生肉と脂肪の燃料で越冬漂流するその生命力があるだろうか。北の海の男たちは、肉体はもとよりその精神力においても超人である。
極地クルージングの夢
帰国後、工ンデュアランス号関係の本を三冊読んだ。想いは南極の海へ。コペンハーゲンからオーデンセの車中で、ノルウェーの青年が小型ヨットでドレイク海峡を横切り、南極大陸に接岸したという話を聞いた、帰路遭難したらしいが。ヨットによる南極大陸一周の記録もあるらしい。(現代の冒険、ボニントン著)吠える南緯50度、裂ける60度、30メートルの大波、どのような世界であろうか。シヤクルトンが20フィートのボートで脱出航海した南極の海に勝る冒険はないにしても、現代の冒険家の夢はまだ消えていない。南ジョージア島、エレファント島、夢をかき立てる絶海の孤島だ。厳冬の北極海から波濤逆巻く南極の海へ、ヒマラヤのようなやさしい自然でないことは確かだ。フラムは前進を意味し、エンデュアランスは忍耐を意味する。名は体をあらわすと言うが、ともに遠征隊を率いた遠征隊を率いたナンセンとシヤクルトンの性質を表していて興味深い。
ヒマラヤにはティルマンやヘルマン・ブールのすばらしいパイオニア精神が刻まれてきた。アルピニズムを信奉する者はそれを鏡とするべきだろう。世界には、あまり人に見向きされない、しかし、圧倒的に美しく困難な山々が数多くある。ルートに至っては無限の創造性がある。未路峰や八千メートル峰の名に惑わされず、実のある本物の山に出会いたいものだ。フィールドが違っても、その精神を培っていきたい。
海から見た百名山、これは深田久弥の日本百名山のように人が殺到するようにはならないだろう。書棚に大航海時代ぎょう書全42巻(岩波書店、1巻6000円もする)がある。家康の命を受け、三浦接針が建造した日本製洋式船は、太平洋を初めて横断した。支
倉常長はイスパニア船で太平洋大西洋を往復した.鎖国がなければ、きっと太平洋の島々にも雄飛していたにちがいない.キャプテン・クックが南極に向かったエンデバー号の帆船模型(高かった)は製作途上で埃をかぶっている。倭寇は、北前船は、漂流民は、海への興味は尽きない.
北海のかなた、南洋の果て、ヨットで氷雪に閉ざされた極地の島々を夢見る.流氷の間を縫って、カムチヤツカやアリューシャン、冬の利尻と知床を継続登山するのも面白いかも.ナンセンやシヤクルトンに寄り添えれば、望外の幸せだ.野放図な夢想にふけっている極楽トンボはいまだ健在だ、と見栄を切っておこう.(とは言え、船酔いが克服できないのではすべては始まらない)