5月の涸沢から北穂高へ
藤本 勇

↑北穂高北峰より奥穂高からジャンダルムを見る。手前右手に北穂南峰が見える

九州にいる愚息から「オヤジ 今年のGWは北穂に行かんか」とのメールが届いた。
親子での登山、しかもアイゼンとピッケルを使った山登りもあと何回あるかと思うとなんとか実現すべくトレーニングを開始した。
昨年、肝臓ガンで逝去した苑樹君の散骨山行を断って涸沢に入ることにした。
この時期の涸沢は昭和29年(1954年)の山岳部の新人合宿以来である。

私の古い山岳ノートに生意気にも下記のようなことが書かれている。
『私が大阪市大に入学して間もない頃、食堂の壁に「4月29日より一週間、穂高涸沢にて新人歓迎山行を行う」とのポスターがかけられていた。(中略)今度の山行で最も良い経験になったのは奥穂高頂下の稜線でテントを設営して吹雪の一夜を明かしたことだ。季節的には冬や早春と違って冷え込みもせず良く寝れた。しかしナイロンテントは吹雪にあおられると、まるで紙の袋の様だった。丁度、英国隊の「エヴエレスト征服」でのサウス・コルの一夜のような気がした。』

5月1日
夕方、駒ヶ根のヒュッテに着くと佐々木・大島両君がいた。南アに行く予定が大島君の尿道結石の急病で中止したそうだ。
5月2日 快晴

上高地(7:55)―明神(8:35 - 8:40) ―徳沢(9:25 - 9:30) ―横尾(10:25 - 10:50) ―横尾本谷の出会い橋(12:05)―涸沢小屋(14:10
  横尾までの道は夏道で全く雪がなく、歩きづらいプラブーツはリュックの中にいれてジョギングシューズで歩く。横尾で早い昼食をとる。横尾の本谷付近までの樹林帯には少し残雪が残る程度であった。本谷に架かる吊り橋は雪崩のために冬季の間は外されている。出会いは雪崩のブロックが累々としていた。北穂高の山容は横尾の出会いあたりから仰ぎ見るのがもっとも大きくてボリゥームがあって良い。(愚息は大キレット長谷川ピークからの北穂が良いと言っていた)



←横尾より仰ぎ見た北穂高


涸沢ヒュッテの近くに色とりどりのテントが張られていた。昨年の剣・三田平のテントの数と比べればなんと多いことだろう。やはり涸沢の人気は格別に高いのだ。
愚息の知人のいる涸沢小屋に宿泊する。愚息に聞くと深夜は涸沢小屋の頭上を満点の星が輝いていたそうだ。
5月3日 晴れ
涸沢小屋(7:05) ―ゴルジュの上(8:15 - 8:20)―北穂高北峰(9:40)
北穂高の東稜と南稜の間にある北穂沢をたくさんの登山者が登っていく。東稜の稜線に登攀者の姿を見る。夏ならばゴルジュの上からは左の南稜にルートはとってあるが積雪期は真っ直ぐに松涛岩のコルをめざして登る。インゼルの左の斜面が50度近くある。アイゼンも快適に雪をとらえている。振り返ると前穂高北尾根の岩尾根が魅力的だ。北穂沢の登りは天気がよくて愚息はTシャツで行動していた。
松涛岩のコルからは岩と雪とのミックスであった。ひと登りした北穂高の山頂にはカメラが並んでいた。360度の展望、目の前の滝谷、奥穂高、前穂高、常念岳、また振り返れば槍ヶ岳から剣や後立山の山並みが見えた。

↑槍ヶ岳がひときわ大きく聳えていた

4シーズン北穂高小屋でアルバイトをしていた愚息は小屋に入れば、まるで「水を得た魚」のように勝手しったる場所で生き生きと働いていた。昨秋、北穂池探訪のとき世話になったので、何かご恩返しと思い、小生は山頂でビールやジュースの販売に努力する。好天のおかげで山頂売店はビールの売上が好調だった。
5月4日 終日雨やまず
夜来の雨がやまず、北穂高小屋はこの時期には珍しい24人もの滞在客(前日からの宿泊客)がホールにおり、小屋の中は出るに出られず停滞する人で満員御礼の状況だった。
何も用事らしいものがないので小屋の掃除やフトンの乾燥などに協力する。
夕方近くになってずぶ濡れになって素泊まりの客が現れる。顔を見るとカトマンズで一緒に食事した山野井夫妻であった。彼らは雨中涸沢岳西尾根を登ってきた。下山のコースを聞くと、滝谷第三尾根を登攀して涸沢岳西尾根を下る予定とか。
北穂高小屋滞在は2泊3日という短い間だったが、小屋主である小山さん始め従業員の皆様の暖かいもてなしを受けて、楽しい時間を過ごす事ができた。

5月5日 晴れ
北穂高小屋(8:40)―涸沢小屋(10:05 - 10:45)―横尾本谷(11:45)―横尾(12:40 - 13:05)―徳沢(14:20 - 14:35)―上高地(15:55)―駒ヶ根ヒュッテ(泊)
長く降り続いた雨も上がり山には精気が戻った。登山者は生き生きと行動し、下山する者、登って来る者が北穂沢を行き来する。インゼルの左を下降するときは少し緊張した。
来た道を戻ったが、3日前に比べて雨と好天の為一段と登山道の雪は解けていたが、残雪の山歩きを横尾まで堪能し、穂高に別れを告げた。
泉・三島先輩たちが1986年に建立された銅板碑は何年か前の大洪水で壊れたままになっているので徳沢への帰る道すがら奥又白の出会いまで行く。昔の記憶を辿りながら銅板碑の場所をあてる。銅板は流されることなく健在であった。しかし、16年の歳月で黒く変色していた。先輩達との様々な思い出をかみしめている間、愚息はのんきに横でふきのとうを探していたが、暖冬のせいもあってすべて育ちすぎていたのが残念そうだった。

追記
市大山岳会ニュースNo.3とNo.4に三島先輩が「銅板碑の人々」と題して銅板に刻んである人達のプロフイールを紹介されている。お元気なのは数人になってしまった。これも時の流れで仕方がないが寂しい限りだ。


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