穂高に集う
定年を目の前に控えて病を知り、アルプスは病を治してからだ、とそれは真摯な一年間の闘病と、そして慶子夫人の手厚い看護の甲斐もなく癌で逝った故苑樹 寛氏を偲んで再び穂高に集いました。
昨年五月の西穂、そして今回の北穂と、彼の後生を弔う慶子夫人の思いが散骨登山の形となりました。
彼が好きだった穂高を吹き抜ける風、滝谷を吹き上げる風に彼の遺灰を流して後生を祈り、ふりかえって我が身の健康を感謝いたしました。
実施月日 2003年8月21日〜24日
参 加 者 苑樹 慶子・山本 勝・藤本 勇・小笹 孝(L)・上堂 竹壽(SL)・久保田 淳三(食料)・
長谷川 ふみ子・吉田 均・佐藤 一良・井本 陽子(佐藤友人)・大島 一恭(会計)・
兵頭 渉・吉村 治代(兵頭友人)
穂高の思い出
そのき けいこ 記
これから秋に向かう穂高の山々を今彼は、風になって眺めていることと思います。そしてこれからもずっと季節の移り変わりを感じていってくれるのでしょう。
3人の子ども達が未だ幼かった頃(下の子は、4才)5年程続けて毎年夏の終りに穂高に登りに行きました。初めての子に(あづみ)と名づけた時から私は、子ども達と穂高に行きたいと思っていたのです。夜中に眠ったままの子ども達を車に乗せ奈良を出発、翌朝上高地に着きその日は横尾や、前穂が美しく見える新村橋下でよくテントを張りました。疲れて歩くのがイヤになった子ども達を小屋のアイスやあおリンゴで釣って誤魔化しながら歩いたのですが、それにしてもよく歩いてくれました。嫌だと言っても仕方が無い事を感じ取っていたのかもしれません。涸沢までの登りは、私にとっても重いリュックと暑さと夏の雨と言うシンドイ思いしか残っていません。
でもテント場に着いた時の美しさと嬉しさはそれを忘れさせてくれるのに余りありました。子ども達は、岩の続く道にくると俄然張り切って元気が出てきます。遊び感覚で楽しかったのでしょう。今年も屏風岩を左に見ながら歩いている時夏草の匂いがしました。16年近く前と同じ匂いです。周りの風景と匂い、時が止まってしまった感覚でした。北穂や奥穂へは、私と2人の子どもで登り、彼は下の子とテント番でした。岩の登り降りは、子どもにとってはジャングルジムに似て怖さも無く楽しいものだったようです。そして小学5年だった息子と彼とで登った奥穂から前穂へは、初めて男同士で登った山でザイルを結びながら何を想っていたのでしょう。北穂から奥穂へは、私、息子、彼と3人で歩きました。初めて見る噂の滝谷は、ガスがかかってとっても神秘的に思えました。そして同時に"死"の恐怖も感じたのです。その辺を歩いていても岩壁を見ると手を掛け、足場をたしかめて登ってみる、そんな姿が子どもみたいで、余程好きなんだなああ!と思っていたのですが、彼の「岩登りが、面白い」と言う気持ちが、穂高に登って初めてなんとなく判った気がしたのです。簡単に言えるものではないのですが、又私も少しの岩の出っ張りに足を降ろしそれに自分をあづけた時、岩登りって面白い!と思えたのです。
大好きだった山の仲間の皆さんにアルプスの風にして頂いて、彼は北に南に中央にと山を充分に楽しんでいることだろうと想います。
おてんとさまのおかげです
上堂
竹壽 記
写真
藤本 勇
参加したメンバー。左より小笹・井本・大島・上堂・長谷川・吉田・吉村・苑樹・久保田・山本・佐藤。
8月21日(木)(晴れ)
午後11時過ぎに参加者全員(23日に北穂で会う予定の兵藤君の他)ヒュッテ雪線に集まる。ビールとカレーをいただき明日の早い出発に備え就寝。
8月22日(金)(晴れ)
朝食をすませ、久保田君お手製の昼弁当をいただき、歯痛のため急遽参加できなくなった岩槻先生に後かたづけをお願いし、予定通り車三台に分乗して出発。沢渡の梓駐車場でタクシーに六名ずつ乗車して上高地へ、来年六月に新釜トンが出来る予定。
前日の雨とは打って変わった晴天に恵まれ、明神、徳沢から新村橋で対岸へ渡り、今日の主役の苑樹さんの思い出の河原で昼食,しいたけのふくめ煮まで入った美味しいお弁当に皆満足。渡り返して、奧又白谷から続く前穂高の東面を見ながら横尾へ。平成11年に出来た立派な吊り橋を渡りいよいよ涸沢へ、岩小屋は水害で埋まり見る影もない。ゆるやかな登りで本谷橋まで屏風岩を左に見ながら進む。右岸へ渡り登りが始まる、木々も針葉樹から広葉樹へ変わりだんだん背も低く、涸沢の雪渓と小屋の吹き流しが見える。ここから二ピッチで涸沢ヒュッテ着。
現役のテントは下に直ぐ見つかる。こちらからの合図でやっと藤村君が気づき登って来てくれる。天気が隔日毎に悪かったらしい。それでも北尾根の他予定の行動は消化したと云う。後半の縦走は小椋君の単独行になる。夕食をはさんで現役も顔をだして差し入れの品々を受け取り、これまでのエピソードをききながら歓談する。
男性7名は天井桟敷の「北穂」・女性4名は隣の「大天井」、明日は「北穂」へ12名入るらしい。日が沈むまで好天で穂高連峰と向かいの常念を主に表銀座の山々がよく見える。日が落ち真上に夏の大三角・ベガ(こと座)デネブ(はくちょう座)アルタイル(わし座)が現れる。下弦の月もでる。気温高く布団を掛けると暑いくらいである。
左はザイテンを登り白出のコルへ。右は前穂高北尾根の稜線
左はジャンダルム。右は涸沢槍付近から見た北穂ドーム
北穂高山頂よりの滝谷
8月23日(土)(晴れ)
快晴がありがたい、パノラマコースを経由してザイテングラートへ、振り向けば常念が立派、前穂北尾根を左に白出のコルをめざす。穂高小屋のテラスでゆっくり休み景色を楽しむ。飛騨側からの風が急に強くなる。北穂へ向かう、涸沢岳の下りに始まり数回の鎖場が現れる。昔のルートと少し違っているように思う。又、滝谷側は岩登りのパーティーへの落石予防のためか一般ルートからはずされ、涸沢側にルートをとり、忠実に稜線をたどるので登り降りがおおくなり、すれ違いに時間がかかる。獅子岩を見下ろす快適な最低鞍部で昼食とする。ドームのてまえで休憩、今朝上高地から登って来る兵藤君と電話連絡で現在地を確かめると丁度北穂の南峰という。こちらもドームをまいて見上げるとかれを見つける。ほぼ予定通りに合流、それにしても早い。
南峰直下滝谷側への踏み跡の先に今日の散骨の儀式に相応しい場所を探す。ここなら滝谷も見渡せ、一般ルートから少し外れているし最適、皆で「お別れ」をする。北穂の頂上と小屋で先頃亡くなった宮崎君にも合掌。かなり疲れている皆と安全に涸沢まで、もうあわてなくとも良い。高度差800m南陵を下る。危険な個所は少ないけれど疲れているのでゆっくり、涸沢小屋の少し上の美味しい湧水で最後の休憩をして小屋へ。今日は涸沢の音楽祭、昼間から小屋の前での演奏が上までよく聞こえていた。夜7時に屋外でトランペットの演奏が一曲あり、室内楽に移る。又、今日昼過ぎ南陵で事故があり、先に降りておられた山本さんが心配されて、色々と情報を集めてくださったのを後で知る。何せいい年のパーティーなんです。慎重に。
今日は朝6時過ぎに涸沢を出て、涸沢に戻ったのが午後5時を廻っていた。11時間のアルバイトであった。
苑樹氏の散骨も無事に終えて北穂高山頂での記念写真
今年は冷夏の影響か高山植物も見られた
8月24日(日)(晴れ)
天候不順の今夏に三日間も晴天に恵まれた。現役の下山を小屋の前で見送る。初めての夏山合宿の成果が荷物にぶら下がる程あふれているが、足取りは若者らしくしっかりしていてたのもしい。佐々木君御苦労様。それにひきかえ・・・。我々も少し遅れて下山、本谷橋まで下って休憩、小笹が持って来てくれたパイ缶をあける。懐かしくも美味しい。屏風岩をとくと見て横尾から新村橋で右岸に渡って女性4名を先にやり、河童橋で再会を約す。
藤本さんの先導で古い先輩の銘板を探すが、河原は夏草が生い繁りなかなか見つからない。半ば諦めかけたとき兵藤君が見つけてくれる。厚さ3o程の銅板の厚板で幅2尺高さ1尺5寸の立派な銘板である。由来は山岳会ニュースのbR・bSに三島先輩が解説されている。少し時間をとってごあいさつをして、河童橋へ向かう。梓川右岸の道は工事用で人はあまり歩いてない。明神池を過ぎるとすっかり雰囲気が変わり、上高地観光のメインルートになる。五千尺ロッジ売店前で佐々木君、女性4名と再会。河童橋も人・人・人、河童にすずなりはいただきかねる。水に流してバス停へ、長い列を見てタクシーで帰る。
*山の花々は、高山植物に関するリンク集を呼び出して、各自思い出しながら探すのも楽 しいものです。試してください。
山よサヨナラ! 右は戦前の大先輩の名前が刻してある銅板を詣でる。
北穂で想うこと
山が大好きだった彼とそして私の勝手な想いに昨年の西穂、そしてこの滝谷、北穂と御一緒して下さった皆様の暖かい想いにとっても感謝し、とっても幸せに思っています。
彼は、好きな山でいられる事をもっともっと幸せに思ってくれていると思います。そして山岳会より応援して下さった皆様有難う御座いました。
夏山合宿の新人等を見るにつけ世代を超えた仲間のスバラシさにも感動しています
そのき けいこ記
|
|
Copyright 2007 Osaka City University Alpine Club. Allrights reserved. |