1999年 雪黒部単独行

和田城志(1975年卒)

まったく山は静かだった。入山から下山まで人影は皆無、足跡さえ無かった。広大な北アルプスの真っ只中を独り占めして、こころ豊かなひとときに酔った。やっぱ、山はいい。
3月13日 晴 自宅出発(5:40)−大阪発(7:12)−富山−立山駅発(12:00)−鬼ヶ城出合上(16:30)
昨晩は見送りに来た妻と友人とで飲み過ぎて、「きたぐに」に乗り遅れてしまい、翌朝の始発特急で出発する羽目になった。なんとなく気乗りしない出発、朝からビールを飲みたい気分だ。
立山駅から立山砂防軌道に入る。8年前にこのコースから五色ヶ原、平の渡し、南沢岳と黒部を横断したが、その時と比べると積雪は多く、ワカンを付けての出発となる。軌道上は斜めの雪面となり歩きにくいし、河原にトレースも見えるので、常願寺川河原に降りることにした。トレースは地元の釣り人のものだった。足跡は鬼ヶ城谷の手前で引っ返していた。鬼ヶ城谷の出合には工事事務所があり、クレーンやタンクローリーが雪に埋まっている。しばらく行くと谷が少し狭くなり、堰堤が谷をふさいでいる。再び軌道を歩かねばならないか。底雪崩のデブリを避けて、安全そうな河原に天幕を設営した。
14日 晴 出発(5:20)−真川、湯川谷合流点(7:10)−林道(9:10)−スゴ谷出合(10:40)−薬師岳北西尾根取り付き(11:30)−1645m(15:00)
泊まり場より再びスイッチバックしている軌道へ戻り、斜面をトラバースして行く。やはり歩きづらい。軌道幅は2m程だから、山の傾斜がそのまま雪傾斜になって、急な崖の所などはスリップの危険がある。砂防工事事務所のある水谷出合でまた河原に降りる。真川と湯川谷の合流点だ。これより尾根に取り付くが、途中に崩れたナイフリッジがあり、また少し湯川谷へ迂回下降しなければならなかった。2時間かかって有峰への林道に這い上がった。計画では旧立山温泉経由の道筋を予定していたから、これでも1時間ほどの短縮になっただろう。林道道幅は5m程あるが、所々雪崩に埋められて斜面になっているところがあった。
強い日差しに焼かれながら林道を行く。ワカンは足首ほどしかもぐらず、快適な雪道だ。スゴ谷の出合付近は開けた谷で、かつて真川の集落があった。四方を山に囲まれ雪に閉ざされた山里、どのような生活を営んでいたのだろうか。今は発電用取水口と錆びついた生コンプラントが寂しく雪に埋もれているだけだ。
スゴ谷出合の看板に立山カルデラの関係年表があった。1858年(安政5年)大地震、鳶山大崩壊、立山温泉埋没。明治39年、立山砂防工事始まる。昭和3年、内務省工事事務所開設、温泉全盛期。昭和44年、集中豪雨、常願寺川大水害、温泉廃れる、とあった。そう言えば、昭和の初期に、強制連行ではないが、たくさんの朝鮮人労働者が働いていたという記事を読んだことがある。春に黒部、針ノ木を越えて逃亡したとあった。過酷な労働であったに違いない。内務省という名称がなんとなくきな臭い。腐った雪、重いザックにふらふらになって尾根に取り付く。薬師岳から北西に伸びた顕著な尾根で、中ほどに丸山(1905m)が名前どおりの姿で座っている。樹林帯の急登をひたすらラッセルに励んで、本格的にバテた午後3時、1645m地点で行動を打ち切った。
15日 雨後雪 沈殿日
東シナ海に前線をともなった発達中の低気圧1008hpがあり、朝には九州正午には岡山と移動、998hpと発達し、全国的に悪天候にみまわれた。未明より雨がテントを打ち始めたが、午前中は小降りで行動できないことはなかったから、少し後悔した。正午より雨脚が強くなり、風も出てきた。
終日、三木清を読んだ。読書に飽きては、天気図を書き、紅茶をすすり、雨に煙る雪山を眺めた。一日というのはこんなにも短いものなのか。
16日 雪後快晴 出発(5:30)−丸山(7:20)−2157m(9:50)−主稜線(13:10)−薬師岳(14:30)−東南尾根2301m付近(17:10)
独りで登ると、どうも頑張り過ぎる。ただ高みへ、単純明快な一日だった。山が嗤い、僕がむきになる。そうして疲労が体の中に充満して微熱を発するようになると、山に受け入れられた気になる。
テントを打つ雨音がしなくなったのは夜中過ぎだった。低気圧は三陸沖に抜け、気温が下がり、雪に変わったようだ。冬なら西高東低の豪雪になるところだが、春はすぐに移動性高気圧となり、回復は間違いない。小雪の舞う薄明かりの中出発、膝下のラッセルであっさり丸山に着く。折から雲が切れ、正面に薬師岳の威容が広がる。なだらかな山だと思っていたが、実に堂々たる山容だ。北風が強く、雪煙がたなびくさまはヒマラヤのようだ。
雪質は最良、高度を上げるに従って、ますます歩き易くなり、2200m付近でアイゼンに履き替える。樹林帯を抜けると、尾根は斜面状となり、主稜線へ急登となる。すぐ近くに見えるのだが、なかなか近づかない。アイゼンワークで足首に疲れを感じ始めたころ、北薬師寄りの稜線に飛び出る。雪屁が大きく張り出した広い尾根筋だ薬師岳へ小一時間で着く。黒部の谷は春霞、有峰ダムも一部湖面が解け始めて、青緑の水面をのぞかせている。北風を避けて、頂上社の元で大の字になって大休止、春の日差しがじりじりと肌に突き刺さる。何度見てきただろうか北アルプスの山並み、青、白、黒が暖色のベールに包まれて平安を形作る。
さあ、下降だ。避難小屋から東南尾根に入る。かつて愛知学院大学の大量遭難があった尾根だ。なだらかなただ広い尾根で、雪が風に吹き飛ばされ地肌が見えている所もある。黒部側に巨大な雪屁が張り出し、這松帯とのコンタクトに亀裂が走っており、それに沿って慎重に下る。2650mからの急下降は南東面の日だまりになり、雪が解けて這松の斜面になっている。その中を下っていくと、足元より雷鳥が飛び出してきた。おるわおるわ、真っ白い雷鳥が十数羽足元をうろつく。彼らのコロニーに迷い込んでしまったようだ。まったく怖がる様子はないが、こちらも気を使って、ゆっくり脅かさないように下った。こんなにたくさんの集団を見たのは初めてだ。たいていはつがいか子連れのファミリーなのに、雪一色の世界にぽつんとできた小さな緑のオアシス、縄張りが接近して集団のようになっているだけかも知れない。
2300mの樹林帯まで下って、やっといいテント地を見つけた。今日はよく歩いた。火照った身体に夕闇の冷気が快い。泡のように星が沸き出てくると、シュンシュンと雪の囁きが聞こえるようになり、黒部の谷々は深い藍色の静寂に包まれる。三日月の光量は淡く、早春の星座は冴え冴えとして瞬きを惜しまない。星空の神秘、雪渓谷の静謐、そして人の不思議、ありふれた、しかしいつまでも僕らの心を捕らえて離さない大自然の美観があった。感傷が込み上げてくるのを止められなかった。
17日 快晴後薄曇 出発(5:30)−薬師沢出合(6:50)−雲の平山荘(10:40)−岩苔乗越(12:30)−水晶小屋(13:30)−東沢乗越(14:30)−真砂岳のコル(15:50)
寒さに目覚めたのは2時、昨夕オリオンのあった位置に大熊座がある。余り気味の燃料にコンロを点け、もう一寝入り。疲れは重く、すぐに深い眠りに落ちた。4時起床、もちラーメン、コーヒー。手慣れたテント撤収も、カチンカチンに凍ったペグを掘り起こすのに手間取った。
東南尾根はなだらかで樹林帯に入ると方向が分かりにくい。視界が悪いと苦労しそうだ。正面に黒部五郎岳を目指してやや左寄りを心がけて下ればいいだろう。薬師沢出合の小屋は2mほどの雪帽子を被り、吊り橋も重たそうに雪をのせている。すぐ下に亀裂の走ったスノーブリッジがあり難無く横断、黒部は雪解けの雫を集め、やわらかに春を歌う。戦時中の田園詩人、竹村俊郎の詩を思い出した。

春来

戦えど小川の水 かくも清かくも清清
ひたひたに岸漲らひ 声高く春を謳いつ

戦えど春浅き山 かくも静かくも静静
白妙のみ雪かがふり 豊けくぞ春日浴みにつ

かくも清かくも清清 かくも静かくも静静
川に聞く神代の響 山に知る太古の沈殿

滝谷や八甲田山で軍事訓練した話は有名だが、雪の山はこの詩のように厭戦的雰囲気の方が似合う。
よくしまった雪面をワカンで急登、2ピッチで雲の平の西端に上り着いた。正真正銘、北アルプスの真っ只中。正面に岩肌を黒々と剥き出した水晶岳、右前方鷲羽岳越しに槍穂高の岩塊、遠く左後方に立山連峰の白い山並み、快晴微風、大雪原に一条のトレールを刻み、身も心も真っ白になって歩く。
祖父岳手前でアイゼンに履き替える。順調に進んではいるが、身体の芯に疲労が居座っていて、活力が湧いてこない。競わず焦らず、ゆっくりとしたペースでただひたすら歩いた。主稜線に出ると、ラッセルは全くなく、夏道沿いに歩ける。ただ、水晶岳からの下りは少し痩せていて気を使った。この稜線は10年前の正月、登山再開の山行として、パートナー岡本のリードで登った。猛吹雪の中、右膝をかばいながら、ザイルにしがみつき辿った記憶がある。
真砂岳手前の吹きざらしのコルにブロックを積んでテントサイトとした。槍の穂先を隠していた雲も日没と共に晴れ上がり、薬師岳の背後は血のような夕焼けに染まった。
18日 快晴 出発(5:30)−野口五郎岳(6:30)−三ッ岳(8:00)−烏帽子小屋(9:30)−高瀬ダム
(13:00)−七倉(14:30)−葛温泉−信濃大町−帰阪
2800mは春とはいえ寒い。4時前に起き出して外をうかがえば、満天の星、まことに未明の星空ほど心にしみるものはない。テントから半身を出し、寒さを忘れて見とれた。天文学や物理学がいかに発達しようとも、ビッグバンも150億光年もダークマターも、つまりは子供のないしょ話のようだ。星々の無防備というか寛容というか、すべての生き物にとって無条件に心を許せる存在はかけがえのないもので、不可知論の方が似合っている。
さあ下山だ。上り下りの少ない丸い尾根は夏道が露出し、アイゼンが気持ち良くささる。夏よりも速いコースタイムで歩いて、あっさりと烏帽子小屋へ着く。ブナタテ尾根を下ると、強い西風が遮られ、春の陽気に包まれる。期待したトレースはついに無かった。ザラメ雪が重たくワカンにからんで、急な樹林帯のラッセルに苦しめられた。所々に残された色褪せたリードに導かれ、ルートを誤ることなく登山口に降り立った。
よく頑張ったというべきだろう。高瀬ダムの湖面は深い青緑色をたたえ、南中した陽の光が反射している。ときおり稜線の冷気が吹き降りてきて、さざ波が立ち、輝きが走る。山登りの快楽がいつもの顔でやってくる。葛温泉の湯煙までもう一歩き、そこにもきっと無人の湯船が待っているだろう。

(あとがき)
異様に日焼けた顔に温泉の湯が快く滲みた。平日の昼過ぎでは食べ物屋は皆準備中の看板、仕方なく大町駅のホームのベンチで、後立山の山並みを眺めながら、そばとビールで完走を祝した。フーッ極楽極楽。
ところが汽車に乗ってがっくり、松本駅まで女子高生の携帯電話、特急「しなの」でおばはんツアーのお喋り、最後は新幹線で営業マンの雑談、「るせーっ!ええ加減にせえ」とおもわず怒鳴りそうになった。たった6日間とはいえ、声を選ぶ権利があったし、山の音という音には品があって、神経がわがままになっていたのだろう。
修養の至らないことは認めるが、どうも日常の街生活に対してこらえ性がない。
一つ気づいたことがある。ノイズとは、意味のない音のことではなくて、わたしにとって無価値な言葉を指す、ということだ。自然の音こそ声であって、控えめな聞き上手の語り手といえる。反対に街の声はただの雑音で、聞き下手の自己主張の応酬といっていい。言語は表情や意味を伴うから決してBGMにはならないし、無意識に感情移入してしまって雑音への参加を強制させられる。ましてや狭い汽車の中や居酒屋で隣り合っては避けようがない。二人以上の集団はそれだけで暴力を孕む。
自然の声には秩序と連続がある。渓の音、風の音、雪の音、光の音、それらは単一では声にならない。光と雪が、水と岩が、風と木々が和合して初めて声になる。つまり寝物語りが基調であって、自己主張のはいる余地はないのだ。山の声は擬人化の不要な一つの交響詩である。
そういう意味で、山の中の沈黙は山との交歓において極めて快活であり、街の中の饒舌は社会に対する自己防御において極めて孤独である。山と19いう労苦と危険に満ちた厳しい自然環境は、孤独について考えやすい場所ではあるが、決して孤独にはならない。木曜日午後9時、ビジネスマンで満席の新幹線の中でしみじみと孤立を感じた。下りてきたばかりなのにもう山に帰りたくなった。

 

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