Aconcagua 急ぎすぎた登頂により敗退

佐々木惣四郎(1965年卒)

<行  先> 南米アルゼンチン アコンカグア峰(6960m)ノーマルルート
<メンバー> 佐々木惣四郎、福山昇二、小松稔、小林深、若林健治
<期  間> 1999/12/19−2000/1/12
先発:12/19、後発:12/22
<はじめに> 今回の企画は、1999年5月より温めてきたものであり、9月よりキップの手配を進めたが、非常に厳しく、11月になってや っと実現した旅であった。         
結果として、後発 ブエノス入りは12/25日で、先発と5日間の開きがついた。
<経  過>
1) 先発隊への後発隊の合流

12/19日 先発の福山、小松、小林の3名が出た後、現役の若林、佐々木の2人が12/22日出発。しかし、ブエノスアイレスよりメンドーサにはいったのは12/25日20:00であった。サンフランシスコにて2日間、飛行機待ちがあったためである。
12/26日 登山許可書をとり、買い物する暇は全くなくインカ(2700m)にはいり、その日のうちにコフルエンシア(3300m)にはいった。
12/27日 6:00過ぎより行動してBC(4300m)にはいったのは15:00 過ぎであった。先発隊と4日間の開きがあった。BCへのルートは広く長く、途中でルートを誤り、時間をくってしまった。
 BCのテント場には日本の涸沢に似て多くのテントがあり、活況を呈していた。

↑BCへのアプローチ

2) BC より C1、C2へ

 BC到着後、すぐにC1入り及びC2荷上げの準備をして(ポーター使用)、翌28日福山と共にC1(5200m)に入り、小松、小林と一緒になれた。
C1(ニード.コンドレス)へのルートは 踏み跡のある雪のない道で富士山の登りに似ている。
12/29日4人でC2に向かい、C2設営(ベルリン:5800m)して、3人がABCに揃った。福山はBCに下る。C2へのルートもC1までのルートとよく似ており、景色が最も広がった。雪はところどころにある程度。
30日小松、小林が登頂を狙い、佐々木はインデペンデント(6500m)あたりまで順化に行くことにした。
3) 登頂に向けて

天気は良く、小松・小林がアタックに向かうことになり出発。佐々木は途中まで行く予定であったが、これといった頭痛もないので、行ける所まで行くことにしてインデペンデントまで登った。インデペンデントから雪があらわれアイゼンの着用となる。
すでに小松・小林パーテイがあとになっていた。風は-10℃ぐらいで冷たく、この頃より目がおかしいことに気がついた。まわりがかすんできたのである。
輪郭がぼやけてきて、先を行く人がよく見えなくなってきた。
従い、早く登頂しようとしたが、頂上直下(6900m)のガレ場は悪く、さらに足元がよく見えず転倒した。どうしようかと思っていたら小林さんが登ってきた。小松君はすでに引き返したことを知った。

↑右奥がSUMMIT

4) C2に撤退

丁度、ノルエー・アメリカの混成パーテイが下山してきて、撤退をサポートしてくれた。C2 5800mまで横につき、足元がよく見えない私をガイドしてくれた。小林さんはザイルでむすび、後ろにずっとついてくれた。
テントに帰りつき、目薬をしてもらい、飲み物、食べ物をもらって一息ついたら少し見えるようになってきたが輪郭は見えず、一応通常に見えたのは翌日であった。
5) BCへ下山−メンドーサへ

12/31日 C2より迎えにきたレンジャー2名につきそわれてBCに下り、ドクターにみてもらうと、すぐにメンドーサ市内の病院に行くよう指示された。
1/1日 佐々木、付添の小林は下山する事になり、C1にいる若林を除く4人でBCの一部撤収を行う。目は充血気味であるが通常ベースに見えた。
佐々木はムーラ(ロバと馬のあいのこ)で12時過ぎに出発し、小林は徒歩にて夫々インカに向かった。
丁度17:00頃インカに到着、チャーター便にてメンドーサに23時過ぎに着き、旅は終わった。
6) 大きな反省と教訓

始めから、高度順化が問題であることは解っていたが、高度による顕著な影響があるものと思っていた。頭痛等の影響もほとんどなかったため、6000mまでは問題ないと判断して、そのまま BCにはいり、結果的に3日目にアタックしてしまった。
このため高度順化不足が目にきたと思われる。やはり6000m前後での高度順化の手順は守るべきであった。今回の手順無視は、ここ2−3年海外にでかけ、高度順化に自信があったこと、及び、体調が良かったことによる。
目の方は、下に降りたことで何の支障もなく見えるようになった。思わぬ撤退により現役若林君および他のメンバーに迷惑をかけてしまい、恐縮している。
アコンカグアはやはり日本からは遠く、BCまでの往復には6日間ほどかかり、また時差の慣れも必要で、簡単に行けるとまではいえない。
<行動記録> 小林 深さんの記録に基づきます。

19日 成田発(先発隊 大阪空港経由)
20日 ブエノスアイレス着−メンドーサ(20:00)
21日 メンドーサーインカ(2700m)
22日 コンフルエンシア着(3300m)
23日 BC(4300m)入り
福山 高度障害かなりひどい 小松は軽度
24日 福山 半ばもうろう、小松 頭痛
小林 4800mまで高度順化往復
25日 小松、小林 C1(5200m)予定地まで往復
福山 回復せず
26日 福山 BCのレインジャーの医師に診察、投薬受ける。休養日とする
27日 小松、小林 C1設営、泊る
福山 BCで休養
後発の佐々木、若林 BC入り
28日 小松、小林 6000mまで高度順化往復、C2設営地の確保(5800m)、C1泊り
若林 かなりの高度障害でBC滞在
佐々木、福山 C1入り
29日 佐々木、小松、小林 C2設営、入り。
小松、小林 6200m まで順化往復
佐々木 入山2日目で高度順応にヤヤ難の様子
福山 C2よりBCに下り、若林と休養
30日 小松、小林組と佐々木単独との二手に別れてそれぞれアタック出発(7:20)
2ピッチ目で小松体調不良でC1へ。結果的に佐々木、小林がそれぞれ単独で登る事になってしまう。午後1時頃、頂上への稜線まであと40-50mの急なガレ場の途中で佐々木に追いつく。様子が変なので聞くと目がみえなくなったという。これでは登頂どころではなく、すぐザイルで確保しながらガレ場を下降。その後、ドイツ、ノルウエー、アメリカの混成パーテイに助けてもらいC2まで無事に降りることができた。
31日 前夜、アメリカ隊がBCのレインジャーと無線で交信してくれてレスキユー隊がくることになる。
午後1時頃レスキュー隊が2人到着。佐々木を2人にまかせて、小林は荷物をもってBCへ直行。途中、若林がC2に食料と燃料の荷揚げに上がってくるのに出会う。C2−BC間が交信不能だったので事情を説明、荷揚げ後C1に入って指令を待つように指示。BCの医師は、即刻メンドーサの病院へ行けとの勧告。目に後遺症が残っては大変なので、佐々木を説得。下山の決心をする。福山、小松はBC。
1日 佐々木はロバで、小林は徒歩でインカまで一気に降り、車でメンドーサへ。夜の11時半にHOTELに着く。若林 C2の撤収
2日 中央病院へ。日曜日だったが、幸い大変親切な先生が診てくれて、両眼とも紫外線で網膜が焼けているが、浅いので大丈夫だとの診断にホッとする。小松、若林 C1の撤収
3日 小松、若林、福山 BC撤収し、コンフルエンシアへ
4日 小松、若林 南壁トレック
5日 小松、若林、福山 コンフルエンシア−インカ−メンドーサ
6日 全員ブエノスへ

                 

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