テントに入って指を見てびっくり。
「黒なっとるがな!」
さすがアコン南壁、
ドドーンとおちている。
小松 稔(1985年卒)
12月19日に日本を出発してからアルゼンチンまで、いやというほど長い空の旅。無事にメンドーサに到着ときは、嬉しかった。メンドーサでは食料等の補充と許可取得が主な仕事である。到着日は店などの場所確認と称して街を歩く。南米では常識かもしれないが、どの店でも長い昼休みを終えて少し仕事をすると店じまい、長い夕食タイムへと突入するのだ。5時頃エージェントを訪れると「早く待ち合わせ場所に行きたいのに」と言わんばかりの対応である。街中6時頃から10時頃まで夏祭りの雰囲気だ。目抜き通りに並ぶレストランでは、分厚いステーキを前に皆楽しそうに語らいながら夕食の一時(長時間だろうが)を楽しんでいる。
21日 許可取得と食料の買いだし、エージェントとの打合わせとつづき、登山口への移動のために車に乗る。2時間以上走っただろうか。時差ぼけで皆車内では起きているのか、寝ているのか分からないような状況でいつのまにか「プエンテ・デル・インカ(インカの橋)」に到着。ホテルの裏側には少しぬるいが温泉もある。このインカの橋は話によると川の両岸から石灰岩が伸びてきてひっついて橋になったものらしく大変貴重な存在らしい。
22日 車が出払っていてすぐに行けず、しばらく待たされての出発となる。ゲートで許可証を提示し、ゴミ袋をもらっていよいよトレッキング開始。正面にはアコンカグアが見えている。4時間も歩くとコンフルエンシアに到着した。気持ちの良い場所で、殺伐とした谷の中でここだけはみずみずしさがあふれていた。夕方、200mほど高度順化のため登ってみた。
23日 昨日登ったところを越えると、いきなり平たんな、幅のやたら広い谷となる。歩けど歩けど、風景があまり変わらない。谷がやや右にカーブしだし、正面に雪のついた山が見えだす。それまで楽勝ムードであったが、そこからが遠かった。ふらふらになりながらようやくBC(プラザ・デ・ムーラス)に到着。
↑BCよりC1へのルート西面
24日 比較的体調のいい小林さんはルートを偵察に、福山さんと私はキャンプ横のモレーンを、順化を兼ねて散歩した。
25日 今日は、小林さんと私と二人C1まで行くこととする。BC正面にみえる三角岩の後ろのキャンプカナダ(4800m)を経て5200mのニード・デ・コンドル(コンドルの巣)を目指す。BCから見えるスカイラインの部分にキャンプ適地があり、テントが数張り(キャンプ・アラスカ?)あった。そこから雪田を進めば程なくコルに達する。ニード・デ・コンドルである。BCからの標高差と今の高度順化状態等から、C1は先程のキャンプ地とすることとして下る。
少し疲れも感じたことから、26日は休養日とする。動きの芳しくない福山さんが気にかかる。昨日もほとんどテントから出ていないようだ。昼から、気分転換に氷河の向こう岸にあるホテルへ出かけてみる。
↑C1より西方を見た山
27日、今日は後発が入山してくる日である。C1への荷をエージェントに託し、小林さんと二人で出発。快調にC1に着くも、ポーターがなかなか上がって来ず、C1を建てたのは薄暗くなりかけた頃だった。佐々木さんもBCに入ったようで、交信では、明日C2の荷をポーターが上げる。そして佐々木さん、福山さん、若林君の3人もC1入りするという。「少し気が早いのでは」と思いつつも交信を終わる。
28日 今日はC2の場所設定と、できれば設営もと小林さんと二人でC1を出る。ニード・デ・コンドルからトラバース気味に登っていくとしばらくでC2のベルリン小屋に着く。標高が高くなってくると、ゆっくり息をしていると苦しくなってくる。能動的に「はっはっ」と呼吸を早くするとしばらくで楽になってくる。途中出会った日本人が相棒の女性にしきりに言っていた戦術で、これは使える。この日は手頃な場所に荷物をまとめてデポし、「明日設営しよか」とC1に下る。
C1には、佐々木さんと福山さんが登っていた。若林君はというと、高度障害と昨日の疲れか、動けないという。そして何よりもC1で僕らを迎えてくれたのはイリジューム(衛星携帯電話)であった。「山頂でこれ借りれるんやったら・・おれやったら100ドルでも出すで」・・その晩は、イリジュームによる商売の企画会議に花が咲いた。
↑C1からC2へ
翌29日、若林君を除く四人でC2に入る。キャンプ設営後、小林さんと二人で高度順化に上がる。福山さんは、今日は一旦下りることとし、佐々木さんは、C2で僕たちを待つことに。二人で急ぐことなく高度を稼ぐ。6200〜6300m付近でしばらく過ごしてC2に戻る。翌日の出発時刻を決めて早めの就寝とする。
30日 今日はできれば山頂までと気合いが入るが、体調が良くない。「まあ行けるとこまで行って戻ればええわ」と出発。しかし、少し進んだところで戻ることにする。小林さん佐々木さんと別れ、C2に。テントに入って指を見てびっくり。「黒なっとるがな!」。コンロに火をつけ湯を沸かす。黒みはしばらくでなくなるが、気持ちはブルー。BCに下り、ドクターのもとに向かう。医師が何やら言うがスペイン語なので全くわからない。とにかくたいしたことはなさそうだ。
自分は降りてきたものの、佐々木・小林の両氏は山頂へ向かっているはずである。定時交信を行なうが、全くとれない。
翌31日も応答は依然なし。とにかく、状況を確認する意味も含めて、C2に食料を上げることにする。体調の戻った若林に行ってもらうことにした。今日も結局分からずかと思った頃、小林さんかなといった風貌の人が下山してくる。手を振りだした。小林さんだった。
佐々木さんは目が見えず、レスキューに前後をフォローされながらゆっくり下ってきている。BCに到着した佐々木さんは意気消沈。ドクターからの至急下山の命令にかなり落ち込んでいる様子だ。診察結果が不安だが、元気そうなのでともあれほっとする。
佐々木さん一人では病院にも行けないので、翌日小林さんが付き添って下ることになった。残りのメンバーだが、アタックするかどうかの議論もあったが、レスキューに迷惑をかけている状況、隊長がいなくなったこと、福山さんの調子と私の凍傷という状況の中、C2へ荷揚げをしてもらった若林には悪いが断念を決める。定時交信でC1の若林に状況と決定を伝える。彼は素直に応じてくれたが、彼にとって本格的に登山が始まったところで中止の決定は辛かったに違いない。
1月1日 とりあえず、そうと決まったら、C2・C1の撤収である。若林にC2の撤収を頼み、私もC1の撤収に上がる。
2日 のんびり過ごすが、別にすることもなく、一日で飽きてしまった。明日からアコンカグア南壁のトレッキングでもしながら下ろうということになる。
3日 余分な荷をムーラで運んでもらうよう手はずをつけてBCで預け、出発する。
のんびり休憩しながらコンフルエンシアに到着。コンフルエンシアではビールを飲みまくる。いままで禁酒してきのが一気に爆発。
4日 ビールをリュックに忍ばせ、トレッキングに出かける。福山さんは体調がまだすぐれず、南壁が見えてきたところで引き返し、私と若林でそのまま氷河沿いに進む。さすがアコン南壁。ドドーンとおちている。二人で、自分やったらどうルートをとる?などと、飽きずに時を過ごした。写真家の小林さんが来られなかったのは残念だった。
1月5日 今日はついに山とお別れする日である。のんびりと下山し、ゲートのチェックポイントで手続きをする。約束よりずっと遅れてやってきた車に乗り、インカへ。しかし車の手配が悪く、メンドーサに着いたときは、翌日に日付が変わりかけていた。それまで連絡がとれなかったので、佐々木さんも心配していたようだった。
深夜に到着したため、楽しみにしていた夜のメンドーサを味わえず、翌日には名残りおしいメンドーサともお別れ。日本からの距離を考えるともう2度と来ないだろうなと思いながら飛行機に乗った。
今回のアコンカグアを振り返ってみて、決して山をなめていたわけではなかったのですが、一般的なルートであることなどから気持ちもゆるんでしまったことは否めません。余裕を持った日程にも関わらず無様な結果となってしまいました。
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