ペルーアンデス撮影行   

2006年628日〜715


              小林 深 

世界で一番美しい山と言われているペルーのアルパマイヨ(ALPAMAYO 5947m)を、カメラに収めるために出かけました。

アンデスはアコンカグアとパタゴニアへ出掛けたことがありますが、ペルーアンデスは私にとって未知の地域でした。ペルーはインカ帝国の中心地であり、スペインのピサロが僅かの軍隊で侵略し、巨大な帝國を崩壊させてしまったドラマの中心地でもあります(注)。何時かは訪れたいと思っていたましたが、まったく突然そのチャンスが訪れました。

メンバーは日本山岳写真協会と日本山岳会のメンバー4人と私の5人でした。トレックは3000m〜5400mの地で、行程の大部分は乗馬によりました。ポーターやキッチンボーイもよく訓練されていて、ネパールと遜色ありませんでした。荷物はロバで運搬しました。しかし、乗馬トレックはまだ一般化していません。

 訪れた山域はブランカ山群(CORDILLERA BLANCA)・・南北に約150km6000m峰が約40座、5000m峰を約500座も連ねる大山群であり、その山群が3000m〜4000mの大平原の上に幾つかの小山群を連ねて聳えていました。その様相は、チベット高原と大変よく似ていました。最高峰であるワスカラン(6768)、チョピカルキ6345)、ワンドイ(6395)プカヒルカ(6039)チャクララフ(6112)アルパマーヨなどの秀峰が連なる山域であります。

冬の6〜9月は乾季にあたるため、空気が澄んでいて大変きれいです。氷河を抱く山々はヒマラヤ襞を纏い、水の豊富な渓谷はヨーロッパアルプスの谷に似て桃源卿のように綺麗でした。山岳地帯の人々は原住民が多く、特に女性は山高帽に原色のスカートと言った民族衣装を纏っています。放牧と農耕(ヒマラヤの段々畑とよく似ている)の世界でした。

南米へは日本と太平洋を跨いで直接結ぶ航路がないので、北米経由となります。大抵アンカレッジ上空を経由してニューヨークかヒューストンで乗り継ぎ、そこからリマやブエノスなどへ行くことになるので長い長いフライトに耐えねばなりません。飛行機代も高くて、遠い国であります。

ペルーアンデスへ行かれた方は少ないと思いますので、その紹介を兼ねてトレックの概略を記させて頂きました。冬は乾季で、トレック中は全日快晴でした。

 

6月30日〜7月2日

リマからワラスまでは7時間400キロのドライブであった。海岸線に沿って200キロ程北上するが、そこは大砂丘地帯であった。年中、雨がほとんど降らないので、海岸から幅数十キロは砂漠そのものなのでる。2時間ほど北上してから大陸内部に向かうと、アンデスからの水で灌漑されたサトウキビの大農場が広がっていた。やがて山岳地帯の渓谷に入ると、谷沿いには緑豊かな畠が続く。しかし、谷を一歩外れると、そこは荒涼とした山岳砂漠地帯であり、草木一本生えていない。カラコルムの山岳地帯とよく似ていた。

 渓谷を登りきるとコノ・コウチャ峠(4090)、バスは一気に4000mも駆け上がっていた。峠からは大平原が遥かかなたまで広がっており、BRANCA山群を始め、HUAYHUASH山群、RAURA山群が遠望できる。何れも氷河を抱く鋭鋒の連なりであり、アンデス山地へやってきたとの実感に打たれた。大平原のかなたの白い山並みをみていると、チベット高原とそっくりであることを思い出した。

 峠から一時間ほど下ったところにブランカ山群の登山基地、ワラスの町(3090m)があった。原住民の多い町であり、リマとは雰囲気がガラリと違っていた。スペイン風に作られた町であり、直ぐ近くに氷河で覆われた山々が見えるので、ヨーロッパアルプスに似た雰囲気である。

ペルーアンデス登山の開拓期に活躍された日本人クライマー、長谷川氏に会う。ワラス在住50年、ガイドとして多くの日本登山隊の面倒を見てこられた方であった。

ワラスはブランカ山群の中心地であり、ここで2日間の高度順化を兼ねてブランカ山群の撮影を行う。ワスカラン(6768)、ウンダイ(6395)、チャクララフ(6112)・・等々を撮る。

 

7月3日〜6日 アルパマイヨ・ベースキャンプまで

初日のキャンプ地まではマイクロバス。途中ポルタ・チェロ峠(4767)で朝景を狙う。峠の朝はかなり冷え込んで、バスの中で羽毛服を着込む。ここは太平洋側からアマゾン側への分水嶺である。カメラをセットして待って居たら、突然ガスが切れ始めワスカラン南峰が赤く染まり始めた。

峠を越えて暫く降りたところで、美しい湖水がありワスカランが眼前に聳えていた。ここでも暫く撮影、絵葉書写真にうってつけの綺麗な風景であった。峠からの渓谷は大変美しく、アルプスの谷の優雅さと、ヒマラヤの谷の雄大さを合わせたような渓谷であった。ここもまさに桃源郷の名に値するようなところであり、途中の小さな部落は家屋も立派で綺麗であった。

最初の村、ヤナマ(3400m)は村祭りの最中であった。村の広場で楽隊が演奏していたりで、民族衣装で着飾った村民が一杯で通れない。引き返し村を迂回して、狭い道をやっと通り抜けた。この辺りまで来ると、インカの末裔たちである山岳民族の世界である。女達はみな山高帽に原色のスカートを纏っている。村を過ぎてかなり走った頃、左手車窓にまさに天空を突き刺すような鋭鋒が光っていた。チャクララフ東峰であった。

最後の村、ポマバンパ(2950)でトレックの食料を調達する。ポマバンパを出て一時間ほど山に入ったところが、最初のキャンプ地であった。高度は3400m、残念ながらアンデスの高峰は見えなかった。

やがて、明日からわれわれを運んでくれる馬とロバ隊が到着した。馬は馬とロバの中間程度の大きさであった。ラバか尋ねたが、馬だという。鐙やクラも日本のとかなり違う。口は荒縄で縛り付けただけである。

私は乗馬教室で競馬を引退した大きなサラブレッドに乗っていたので、これがほんとに馬かと思ってしまった。馬にもいろんな種類があるのだろうが、こんな小さい馬で大丈夫かと一寸心配になった。ここから先はまともな道がないので、明日から乗馬トレックである。

二日目、トレック中の風景は、チベットの大高原とそっくりであった。広いなだらかな草原地帯と、それを取り巻く高度差5~600メート位の山々が何時までも続いた。山には木がまったく生えていないが、山裾はサボテン状の草に覆われていて緑色である。草原には放牧に来ている群れがあちこちに点在していた。空気は冷たく、風が吹くとかなり寒い。まさにチベット高原を馬で行く気分であった。

幾つも峠を越えてどんどん高度を上げ、この日の最後の峠(4340m)を越えて再び太平洋側に入った。峠からはキラキラ輝くアルパマヨ山群が遠望できた。峠の下りは急坂で、馬を下りて歩いて降りる。小さな湖水のほとりが今夜のテント地ウエクロ・コーチャ(4100m)であった。プカヒルカ(6074m)が近くに見える。昭和36年、一ツ橋隊が初登頂した山である。

3日目、周りの山の高さがどんどん高くなるが、広い谷筋は相変わらず草原が続く。次々と5000mに近い峠を越えて進むが急坂が多くて、馬も乗ってる私も大変であった。時々強風に煽られて,馬もろ共横流しにされてしまうこと再三であった。急斜面のトラバース道は、一歩間違ったら遙か数百メートルの谷底へ転落必至である。馬を信頼して、しがみつく様に乗っているしかなかった。

しかし、馬は登山のベテランであった。危険な箇所は、足の置き場をよく考えてからでないと決して先を進まない。大きな岩を越える時は飛び上がるので、落ちないように必至でバランスを取らねばならない。その度に膝を屈伸させてバランスを取らねばならないので、膝はキリキリするほど痛かった。

しかし、そうした危険地帯以外では、遥かなる高峰に囲まれた雄大な風景を眺めながらの素晴らしい乗馬行であった。美しいアンデスの高峰を見ながら、大自然の真っ只中を終日乗馬で旅するとは人生最高の幸せであると感じた。

キャンプ地は4200m、夕食はキッチンボーイがペルー料理を作ってくれて、大変美味しかった。赤ワインを美味しく飲んで、程よく酔って寝袋に潜り込んだ。ワインはロバ隊が沢山運んできたので、高山病を気にしながらも毎晩欲しいだけ頂けた。

昨夜5回も小便に起きたのは、高山病の予防に良いと云うのでコカ茶を沢山飲んだからであった。コカ茶は麻薬の原料であるコカの葉で作ったお茶であり、日本では麻薬に分類されていて輸入は禁止されているそうだ。利尿剤として、素晴らしい効き目があるようだ。

4日目も急坂の連続、道はどんどん険しくなり、両脇の山は急峻になり氷河で覆われるようになってきた。馬は高度と急坂とで、時々止まってフーフーと激しい息使いをする。そして恨めしそうに大きな目でジーッと私を見つめるので、可哀相になってしまう。それでも4500mもの高地で、500mもの急阪を一気に登ってくれる。小柄であるが、すごい馬力の馬であった。

最後の峠、カラカラ峠(4830m)に上がると、純白に輝くアルパマヨが目の前に聳えていた。サンタクルス山群の山々も直ぐ向こうである。思わず歓声が上がる。岩の急坂を降りたら、広い川原の草地であった。4700m、アルパマヨのベースキャンプ地であった。アルパマヨ谷から上がってきたトレッカーが2組、キャンプしていた。

 

7月7日〜9日 アルパマヨ撮影

 快晴であるが、太陽はアルパマーヨの裏側なので山は焼けなかった。しかし、8時頃より朝の斜光が入り始め、素晴らしい状態になってきた。時間がゆっくりあったので、一時間ほど、撮影を続けた。

今日はモレーン上部のキャンプ地へ上がる。モレーンの登りは急なガラ場で、馬は苦しそうであった。乗ってる私も、直ぐに膝が痛くなってしまった。丁度、穂高のザイテングラードを馬に乗って登っているような登りである。モレーン中程に深い緑色の大きな氷河湖・アルパマヨ湖の良く見えるところで暫く撮影する。峠に着くと、アブスラク(5555m)とサンタクルス(5829m)の雄大な姿が飛び込んできた。

峠を越えてキャンプ地に到着、高度4700mであった。カメラザックを担いで辺りを歩き回るが高度順化は完全に出来上がっているらしく、急坂を登らない限り3000m位にしか感じなかった。

この辺りの地形は、全部氷河の削ったカール地形である。乾燥しているが、砂漠様の荒い草が生えていて全面が緑である。だから、こんな奥地にも放牧の痕跡がある。草さえ生えていれば、どんな奥地へでも出かけるようだ。太陽が山陰に沈むと、急激に冷えてきた。

夕景の撮影は日が高いうちはサンタクルスの見える丘へ出かけ、日が落ち始めた時はテントの近くでアルパマヨ西壁を狙った。

トレック中、馬もロバもテント地に着くと放されてしまう。エサは一切与えない。テント地の近くで勝手に草を食っている。放り出しておいても、逃げないのが不思議であった。中にはかなり遠くまで行ってしまうのも居るが、朝、ポーター達が行くと逃げもしないで素直に帰って来る。エサも燃料も要らない最高に便利な交通機関なのである。

翌日は撮影のため、更に上部まで登る。モレーンの上部まで馬で行くが、昨日以上に急なガラ場の急坂で、馬にも人にも厳しい登りであった。時々蹄鉄が岩で滑ったりするので、馬から落ちそうになる。よくまあ登ってくれたと、感心した。

ガレ場を登りきったところで馬を下りた。ここから先は岩場で、馬は登れない。5000mを越えているが、カメラザックはポータが担いでくれたので、サブザックだけの私は快調に登ることができた。途中2ピッチ、ザイルで確保してもらう。岩場を登り切ったら歓声が上った。眼前にアルパマヨが輝いていたのである。高度5400mであった。

確かにここから見るアルパマヨ(西南稜)は、世界で一番美しいと言うに相応しい。純白の端正な三角錐が、氷河の上に泰然と峻立していた。美しさと優雅さで、マッターホーンを遥かに凌いでいる。岩の上にポイントを決めて三脚を立てた頃から、山頂に雲が湧き出し始めた。雲の合間を狙って、興奮と陶酔の中でシャッターを切り続ける。

正午頃には空一面の雲に覆われたので、下山を始めた。岩場を降りて、キャンプ地まで歩いて降りる。アルパマヨを撮るという最大目標が十分に達成され、満足しきった夕食の団欒はワインが最高に美味しかった。

翌日、アルパマヨベースキャンプに降りて、午後は休養となった。夕食時、日本山岳写真協会のKさんが、80歳まで山岳写真山を撮り続けたいと言われた。多くの会員が70歳までに止めてしまうとのことで、どこの会でも似たような状況らしい。私の所属する山岳写真の会でも、70歳を超えて高山に登る人はほとんど居ない。

私は丁度70歳、今後も体力が許す限り続けたいと思ったものの、せいぜいあと数年だろうと思ってしまった。

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 このあとトレックはSantaCruz(6259m)山域を経て712日まで続きますが、ここまででペルーアンデスの様子が大体分かって頂けたと思いますので、紙面の都合もあり以下は省略します。

パタゴニア、アルゼンチン、チリなどと、ペルーとは同じアンデス山地と思えないほど違いが大きいことを知りました。まだ訪れたことのない中米諸国の山域は、また全然違う世界だろうと思います。日本のスケールで考えたらアカン世界でした。

ポジフィルム(35ミリで36枚撮り)40本ほども撮ってきましたが、気に入った写真は10数枚でした。

 (注)参考図書:増田義郎著「インカ帝国探検記」(ある文明の滅亡の歴史)中公文庫・・ピサロによるインカ帝国の征服が、詳細に記されています。

                  

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