ゲントU峰登頂(1978)
小林治俊(1970年卒)
↑ゲントU峰の頂上よりのゲントT峰
●出発まで
本遠征隊の母体である関西学生山岳連盟OBの会(AAVK・OB会)は、大阪を中心とした大学卒業後2−4年の若手OBによって、1972年5月発足した。大学山岳部時代をAAVKの中で共に過ごした横のつながりを自覚的に継続させ、大学間の枠を越えた交流の中で、大学卒業後の山行を広範かつ積極的に行なおうとしたのである。そこではもちろん、ヒマラヤの計画も暗黙の了解事項だった。そして会の趣旨に賛同する現役学生達とも、共に数多くの山行を行ってきた。今回の遠征は、こうしたOB会の日常の活動の延長線上にあると考えてよい。OB会のまいた種が一つの実りをみたと言えよう。
今回の遠征の発端は、1976年の阪大隊のアプサラサス遠征であった。三名の当会の仲間がこれに参加しており、ヒマラヤを希求する会員に大きな刺激と方針を与え、彼等の帰国後、はずみがついたように、78年を目指す雰囲気が芽生えて来た。これまで幾度か生まれた計画が流れていただけに、今回は必死であった。
各自、思い思いの対象をぶっつけ合った、結局カラコルムの7700メートル級のバリエーションに落ち着き、ラカポシ、マッシャーブルム、サルトロ・カンリといった大物を狙って、77年3月には準備会が持たれ、活動が開始された。7月、会のメンバーである和田がバキスタン入りし、いよいよ夢を実現させる下準備が揃うことになる。
一方、私は会初めての遠征に参加したい気持ちであったが、諸般の事情があり静観の姿勢であった。8月末に、ようやく加わることを決心し、隊長を引き受けることになった。
ところで、この時点における準備会は、その意気込みに反し、遠征遂行のための運営方法や遠征に対する認識が甘く、うわすべりの活動しか出来ていなかったようだ。候補としていた山に関する情報はもとより、登攀計画、装備、食糧に対する検討も不十分であった。日本山岳協会へ申請書を提出する最終期限の10月20日もせまり、このような状態で7700メートル級のバリエーションを採ることは、不都合であるのは明らかに思えたので、候補の山の変更を提起した。連日の議論が行われたが、結局押し切るようなかたちで、東部カラコルムの未踏峰ゲントU峰を第一志望とすることを了解してもらった。
3月にバキスタン政府より許可がおり、懸案の弘前大山の会との競合問題も、山の会が譲歩してくれ解決した。あわただしい準備が出発間際まで続けられ、4月24日、先発の4名が大阪を発っていった。
● アプローチ
5月15日、リェゾン・オフィサー、コック、そしてポーター99名とともにカブルーを出発した。コンダス河沿いのキャラバン・ルートは泊まり場が固定化しつつあるようで、当初の計画通りにはゆかなかったが、おおもね順調に進んだ。ピンディ以来の下痢で体調を崩している隊員にとっては、つらいゴーィング・マーチであった。最奥の村、カルマディンで、レギュレーション通りの休養日をとる。
22日、コンダス氷河舌端のグロンジンに着く。以後はコンダス氷河に入ったり、左岸のモレーンに出たりの行動となる。23日は、昨年のオーストリア隊ベースだと言って、ポーター達は実働3時間であった。24日は、たった2時間歩いた所で荷をほどく。昨日はリェゾンとポーター頭ジャファールとの話し合いで、こちらが折れた経緯があるにもかかわらず、この有様である。ジャファールに更に進むよう、強く再考をうながしたところ、突然彼はポーター達を煽動し、荷物を放棄させるといきまき、一時は騒然とした。結局リェゾンの調停で騒ぎはおさまったが、ジャファールはカブルーへ戻り、代わりにサリンのマハディを頭目とする。
5月25日、昨夜来の雨がテントを濡らしており、天候は思わしくなかった。キャラバン途中で雪となり、シェルピ氷河の一つ下方の無名氷河と、コンダス氷河左岸の合流点のモレーンの外のBC(4000メートル)にキャラバン隊が到着した時には、みぞれ混じりの雪が絶え間なく降り続いていた。90人ものポーターをも、この地にとどまらせる装備もなく、やむを得ず明日からの荷上げに備えて19人のポーターを残し、他を解雇した。賃金支払い後、彼等は雪の降るコンダス氷河を下って行った。
ここは乾いた砂地の平坦地で、モレーンのすぐ横に大きな池のある絶好のキャンプ地である。61年、オーストリア隊のBC跡でもあり、付近の岩壁には、77年のオーストリア隊員の遭難レリーフがあった。
5月26日も小雪の舞う日であったが、ポーター達に食糧と若干の装備を支給し、さっそく荷上げを開始し、翌27日、C1(4300メートル)を建設する。BCからは岩屑の堆積したコンダス氷河の中央部左岸よりを緩やかに高度を上げて登って行く。C1付近から雪が出てきたが、早朝の行動ではほとんど潜らない。コンダス氷河は、シルバー・スローン西稜の末端付近で右に大きく旋回し、なお平坦かつ広大に開けてゆき、その最上部の左はコンウェイ・サドルへ、そして右はシア・ラへと吸収されていく。C1から途中にデポ地を設け、31日、C2(4800メートル)を氷河湖のそばに建設した。6月1日、和田、山本でシア・ラ偵察。ルートが長く、荷上げに苦労しそうだ。
● デパック峰を越えゲントUへ
4日と5日の両日で、全員が待望のシア・ラ(5700メートル)に到達した。ここでようやく、いままで見えなかったゲント山塊を目の前にする。左へ目を転じれば、シンギ・カンリ、テラム・カンリと続き、振り返れば、チョゴリザ、ガッシャーブルム山群と、素晴らしい展望だ。一方、4人のポーターと隊員により、デポ地の隊荷を全て回収、C2に集結した。これにより予定通り、ここを実際上のBCとして、今後の登山活動を行うこととした。見上げれば、バルトロ・カンリが堂々の姿でそびえ立ち、我々の志気を鼓舞し、遠征気分を盛り上げてくれる。
7日、三人の隊員によって、シア・ラにC3が建設され、その後C3への荷上げと、隊員の高度順化のための登降を繰り返した。そして、不調の片岡を除き他の隊員は、ほぼ高度順化を完了し、こうしてゲントへの登攀態勢が一応整った。
しかし、ここで我々は60年の合同隊と同じように、ゲントU峰とデパック峰を誤認する失敗を招くことになる。すなわち、シア・ラの南東、すぐ前面にそびえ、ウェストソース氷河にボリュームのある雪の北西稜を大きく張り出しているピークが、実際はデパック峰(約6900メートル)であるのに、それをゲントU峰であると誤認したのである。わずかばかりの偵察行、バルトロ・カンリからの写真、そして地図などにたよった結果であった。やはり、在るはずの無いゲントU峰の北西稜にまよわされず、徹底した偵察パーティを、シルバー・スローン・プラトーの奥まで出すべきであった。
ともあれ、この判定により、今後の登路を(ゲントU峰と思っていた)デパックの北西稜の内院氷河に決定する。13日から17日までは雪模様となり、停滞、休養日となる。18日、C3に全員が集結、ここに至ってもなお、片岡は調子が出ず、高度の影響であろう、常に熱を出している。他は大丈夫である。
19日、山本、竹中、岡本は予定の内院氷河のプラトーまでルート整備に出かけたが、ウェストソース氷河を横断したところで、プラトーへの急斜面の登りにあるクレバス帯の幅1メートルほどのヒドンクレバスに山本が10メートルほど墜落した。幸い大腿部の打撲のみでことなきを得たものの、以後1週間隊列を離れた。20日、急斜面にフィックス工作を行い、500メートルのロープを固定し、プラトーの一番奥にC4(6100メートル)を建設した。
22日、和田、板倉、池田は、C4から最初のクレバス帯をスノーブリッジで越せば、上部のプラトーに出て、長い登りの後デパック北東稜上にC5が建設出来ることを伝えてきた。23日、C5をデパックへの急なリッジの始まる手前の平坦地に建設。24日、全隊員C3に集結。アタック態勢に入る。26日、和田、板倉、池田は、デパックへの雪稜に150メートルのロープを固定、他はC4に入る。
27日、アタック隊は、C5を出発、ところどころロープ工作を重ねながら頂上に到着する。そこからコルを隔て、ゲントU峰の白い姿が望まれた。従って彼等が立っているピークが、デパックという事になる。ゲントU峰は、頂上から少し下った地点より壁になって、シルバー・スローン・プラトーへスッパリと切れ落ちているのが確認された。アタック隊はC4へ下る。28日、竹中、岡本、片岡は、デパック峰からコルの下りに200メートルのロープを固定する。高度差は約150メートルぐらいか。この日、小林、山本、沢井、小川はC5に入り、明日はデパックに登り高度順化を兼ねることにする。29日、C5を出るも、ただちに沢井が不調をうったえる。協議し、山本、沢井はC5に戻り、小林、小川は登高を続けた。行けるところまでと、デパック峰からコルに下り、幅広く、わずかに上下する稜線を進み、ゲントの北面の雪壁を試みたが、膝までのラッセルとC5からの長時間、長躯の行動で体力を消耗させ、約7000メートル(基部から150メートル)が最高到達点であった。
7月1日、C3に全員が集合し、こうして、ゲントとデパックの誤認にもとづく、ゲント攻撃の第一ステージは終了した。C3のシア・ラで休養の後、再攻撃のために、アタックメンバーの再編成を行う。片岡にはドクター・ストップがかかり、ドクターは調子が出ず、アタックは断念、逆に復調している山本がアタック隊に加わる。
第一次隊を和田、板倉、小川、第二次隊に竹中、岡本、池田、しんがりの第三次隊は小林、山本とした。デパック上の最終C6からの、ゲント頂上へのルートには、特に困難な箇所は無いようだが、ルートが長く、一日でアタックが可能かどうか多少の不安が残る。
7月5日、第一次隊C4着。しかし翌日から吹き荒れた吹雪によって、ゲント山塊は乳白濁色と化し、最悪のコンディションとなった。食料も底をつくようになり、悲観的な空気がテント内に充満し出した。アタックを第一次隊だけにしては、との意見も出たが、この悪天も7月下旬までは続かず、必ず好天気がやってくるだろうと、出来るだけねばることにした。
13日、待望の晴天がやってきた。まわりの山々はすっかり雪化粧をほどこし、見事な姿を見せてくれた。雪に埋もれたテントやフィックス・ロープの掘り出しなどを続け、14日、第一次隊は最終のC6に入った。C4には第二次隊が、C3には第三次隊、そして沢井、片岡が待機した。
15日、午前2時半、C6を出発した第一次隊は快調に飛ばし、6時にはゲントへの登りに着き、ゲントの雪壁に入る。少し右上にダイレクトに登り、右の肩が接近すると、左へブレイカブルな雪面を大きくトラバースし、8時過ぎ、頂上直下に辿り着いた。一休みの後、岩の露出した雪稜を急登して、9時22分ゲントU峰の頂に立った。
16日、第二次隊が、17日、第三次隊が引きつづいて登頂に成功した。
<記録概要>
隊の名称 関西学生山岳連盟OB会カラコルム遠征隊1978年
活動期間 1978年5月〜7月
目 的 ゲントU峰(7343メートル)の初登頂
隊の構成 隊長=小林治俊(31、大阪市大OB)、副隊長=山本浩(29、大阪工大OB)、
和田城志(29,大阪市大OB)、隊員・医師=沢井敏安(34、名古屋大OB)、
記録=竹中時夫(31、大阪工大OB)、
食料=岡本正人(30、龍谷大OB)、会計=板倉健二(27、関西大OB)、
装備=小川宣明(27、近畿大OB)
輸送=池田芳則(23,龍谷大4年生)、食料=片岡泰彦(23、大阪市大4年生)
連絡将校=ザファール・サリーム(Zafar Saleem、陸軍大尉、26)
行動概要 5月11日カブルーに先発、後発隊が合流。5月15日キャラバン開始。スルモ、
ウルセ、タガス、ブラックホール、ラチット、カルマディン、グロンジン、ビャンカ、
ビャヒティーンと進み、
5月25日、コンダス氷河モレーンの外にBC(4100メートル)建設。
5月27日C1建設(4300メートル)。
5月31日C2建設(4700メートル)。6月7日シア・ラにC3建設(5700メートル)。
6月20日C4建設(6100メートル)。6月23日C5建設(6600メートル)。
6月27日〜29日沢井を除く9名がデパック峰(約6900メートル)に登頂、
同峰頂上に最終のC6建設。
7月1日全隊員C3に下る。
7月13日1週間の悪天候の後、ゲントU峰へのアタックを開始する。
7月15日和田、板倉、小川がゲントU峰に登頂。
7月16日竹中、岡本、池田が登頂。7月17日小林、山本が登頂。
7月22日BCに集結。7月23日BC出発。7月28日カブルー着。
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