カンジロバ・ヒマール主峰初登頂(1970年秋)
常 慶 和 久
1.まえがき
私たち大阪市立大学山岳会は、過去、1961年と1964年の二度にわたって、ネパール・ヒマラヤのランタン・リルンに遠征隊を送った。(注1)しかし、いずれも不成功に終つた。 そのため、ランタル・リルンは当会にとって、いよいよ悲願の山、宿命の山と化していった。
ネパール政府の登山禁止により、リルンの実現性は一歩後退した感がし、望みはただ解禁を待つばかりだった。1969年、待望の解禁が実現されたものの、三十八座の中にリルンは含まれておらず、ネパール政府の登山許可もとれずに今日に至っている。
第一次の遠征以来十年、海外遠征も年ごとに盛んになり、ランタン・リルンを「宿命の山」として胎教されてきた若い山仲間の中にも、無為に打ち過ごす現状を危惧して、ランクン・リルン以外の山を目指すムードが醸成されてきた。そして、若手OBと現役三〜四名が集まり、三十八座の中で私たちの技量にあった処女峰という方針でチェックして、最後に残った山がカンジロバ・ヒマールだった。当会にあって、第二次ランタン・リルン遠征後計画がもちあがりかけたが、登山禁止のため立消えになってしまったこと、ちょうど、1969年の岩友会隊(カンジロバ踏査隊)に当会会員の沢田が参加するという経緯もあって、カンジロバ計画に拍車がかかった。
2.カンジロバ・ヒマールの概念とその魅力
カンジロバ・ヒマールはダウラギリ連峰の西にあって、アピ、サイパルに次ぐ西ネパールの高峰である。その主峰(6882メートル)は、高度、位置、地形等が不明確のため、いつとなく「幻の山」と呼ばれ、長い間、謎に包まれていた。これは登山家の情熱を駆りたてるほどの巨大な山でなかったことと、西ネパールの辺境にあるが故に、ポーター、食糧等の確保が難しく、かつ複雑な地形をしているため、アプローチが非常に困難である、という要因も関係していたと思われる。
過去、登山を目的としてカンジロバ・ヒマールの山域に接近あるいは踏査した遠征隊は、1952年のティッヒー隊(オーストリア)、1958年の川喜田隊、1962年のイギリス女性隊、1963年と1967年の東海大学隊、1963年の同志社大学隊、1967年のノルディック隊 (オランダ)、1969年の岩友会隊、同年の神戸商科大学隊、そして1961年、1964年、1969年のタイソン隊(イギリス)が挙げられる。各隊はそれなりの成果を収め、カンジロバ山域の解明に少なからず貢献してきた。しかしながら、これだけの遠征隊が出かけたにもかかわらず、決定的な地理的解明はなされず、依然として主峰は人を寄せつけず、未知の山域の盟主として残されていた。 主峰に接近する方法、可能性はほとんど見当たらなかった。
1961年、タイソンは主峰の南麓を流れているジャグドウラ・コーラからの接近を試みたが、深いゴルジュに行手を阻まれて退却。翌年のイギリス女性隊もラ・シヤンマ登項後、その肩からメイダンヘ下り、深いゴルジュ帯の迂回を試みたがこれも失敗している。私たちはこの谷よりアプローチすることは100パーセント不可能と断定した。一方、北からのアプローチは、1964年、再びタイソンが試みたが主峰へ通じる沢に入ることができず引き返した。三度、タイスンは北から攻めたが、時間切れで主峰を陥落させることはできなかった。(注2)荒廃したラング・コーラ、深い谷、長いアプローチを考慮すると、スムーズに主峰の麓に達する可能性はほとんど期待薄だった。残るは東か西からのルートしかなかった。東からのルートは「地図の空白部」(注3)といわれるだけあって次の疑問点があった。第一には〃第二の高峰」(注4)がどの位置に存在するのか。第二に6660メートル峰(カン・ジエラルワ)(注5)の山群は独立したものなのか、あるいはカンジロバの主脈かウエッジ・ピークにつながるのか。第三に、ハンギング・グレイシヤー・ピークス、ウエッジ・ピークとカンジロバ主脈との関係はどうなのか。仮にこれらの疑問を解くことができ、主峰に接近できるにしても、この奥深い氷河の中までポーターを連れて行くことができるのか、また彼らの食糧の確保はどうするのか、考えれば考えるほど悲観的結論論しか出なかった。
最後の西ルートはどうか。タイソンの地図(注6)には、パトラシ・ヒマールの西は等高線が明示されているものの、実際に荷上げは可能なのか、また全くの空白であるジャグドウラ谷側への下降は可能なのか。研究するにも資料はなく、カンデ・ヒウンチェリに行った神戸商大隊の成果を待つしかなかった。
こうして「いかにして主峰に接近するか」という大きな難問をかかえながらも、他の山にない、この探検的要素の豊富なカンジロバ山域の魅力は各隊員の心にしっかりと根をおろし、当初、ヒマラヤの処女峰であればよかったものが、準備の過程を通じて、もはやカンジロバ・ヒマールでなければならないものとなっていった。
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