カンジロバ・ヒマール主峰初登頂(3)
6. ジャグドウラ・コーラヘの下降
この壁の突破が成功へのキーポイントとなった。そして全隊員の全エネルギーが注ぎこまれた。平均傾斜四〇〜四五度の下降ルートは、上部は雪のついたもろいガリー状の岩、下部は逆層スラブから成っていた。幸運にも北に面しているため、雪崩と落石からは免れたものの、雪庇の切り崩し、稜線からのスノーシャワーを浴びてのルート工作は、寒さも手伝って予想以上に手こずった。前半は佐藤、奥田、後半は、後藤、沢井、沢田が加わってルート工作にあたり、この400メートルの岩壁地帯の下降に、約850メートルのフィックスト・ロープ、45本のロックおよびアイスピトン、1台10メートルの縄ばしご
9台、ボルト7本を使用した。
1トン近くの食糧、装備が集結された C3から、20キロの荷物を背負っての下降は辛い行動だった。スリップして荷物を氷河に落としたり、氷結した滝状のルンゼでシェルパが落ちたこともあった。こうして人跡未踏のジャグドウラ・コーラへの下降に10日間が費やされた。
7. 残りあと10日間
10月27日、計画より約2週間遅れて、ジャグドウラ・コーラとカンジロバ主峰の南に入りこむ氷河との合流点に、第二のベース・キャンプ、C4(4040メートル)を建設した。高度4400〜4500メートルと考えていたが、実際には C3から C4まで、実に1400メートルの下りとなった。
28日より4日間、常慶、佐藤、プルキパが偵察にあたり、他はデポ回収および荷上げにあたった。急な草付よりモレーンを経て、4800メートルから5400メートルまではズタズタに切れたアイス・フォール帯となり、その上は雪原がビラミッド状の主峰の麓に続いていることがわかった。アタックルートとなるリッジの中央部には氷壁と思われる個所があり、テントを設けられそうな場所は見当たらなかった。
11月1日は、これからに備えて休養日とし、少なくとも10日分の食糧を確保するため、食糧の食いのばしを始める。カンジロバ登項の道は、この10日間の行動にかかってきた。
2日、主峰が正面に見える5220メートルの地点に C5を建設。最後の難関となったアイス・フォール帯(約200メートル)を攻略して、四日、雪原の奥に C6(5480メートル)を建設。佐藤、沢井、沢田、ブルキパが入る。
翌日、C6の4名はアタックに備えてリッジの核心部分のルート工作のため6000メートル地点に達し、120メートルのロープを固定して帰る。氷壁と思われていた個所は、雪壁とプレイカブルなナイフリッジだった。このリッジは、6200メートルあたりで東南稜に吸収されていた。
6日、C6よりピークまでの行程はあまりにも長く、1日での往復は困難と判断し、リッジ末端のコブ状の台地に C7(5800メートル)を設け、第一次アタック隊員、佐藤、奥田、沢井、沢田、第二次アタック隊員、常慶、諏訪、後藤、プルキパと決定。7、8両日にわたっての全員登項のアタック態勢が整った。
8. 登 頂
以下は沢田の手記による。
11月7日、4時起床。外はまだ真暗で星がさん然と輝いていた。第一次登頂隊の四人は意外に冷静だったが、やはり何か知らぬ緊張と興奮があった。
5時55分、テントを飛び出る。ほんのりと夜が明け、カンジロバの雪稜はしだいに赤味をおび、ヒマラヤの静かな美しい夜明けとともに登高が始まった。
荒々しい呼吸は白い吐息となり、頬をなでる冷たい朝風に消された。佐藤、沢田のパーティと奥田、沢井のパーティに分かれ、フィックスした部分を快調なペースで通過。最終キャンプを見下ろす隊員の顔には希望がみなぎっていた。このもろい氷と堅雪のミックスしたナイフリッジを過ぎると、40度位の気の遠くなるような雪壁の登高となった。右手には巨大な雪庇、左手には青氷を混じえた雪壁が切れ落ちていた。一歩一歩アイゼンを蹴りこみながら、「俺は今ピークを目指して登っているんだ。この単調な登りが終ればまだ誰れも立ったことのない、あの項に必ず着くんだ。苦しくても我慢しろ」と自分に言い聞かせた。
昼頃よりガスと雲が発生し、時折りピークを包んだ6400メートルあたりで高度障害のためか、眠気と頭痛を覚えた。ビレイしている時、夢のような、気持よい眠りに誘われ、ハッと気がつくこともあった。それはほんの数秒間だったが、長い時間のように感じられた。2時、東南稜唯一の平地(約6500メートル)で食事をとり、薬を服用する。考えてみれば、テントを出て以来何も口に入れていなかった。不必要なものをヂポし、最後の登りにかかる。天気はしだいに悪化してきた。ピークはまだか。
トップを行く奥田さんの「オーイ、サクセッスだ!」との叫び声が耳に入った。すぐに、トランシーバーを出しながら登ってくる佐藤さんに合図を送る。半分ガスに包まれたピークへ無心に近づく。3時30分、私たちの視界を遮る高い山はなかった。急に涙が頬にたれた。この喜びを一人静かにかみしめるように坐っている佐藤さん、トランシーバーに向かって涙声をあげる沢井さん。成功とはこんなものだろうか。旗をピッケルにつなぎ、写真を撮った後、全員がサインした日の丸の旗を雪の中に埋める。ガスの切れ間から見えるカンデ・ヒウンチェリや北峰へのなだらかな稜線を見ながら、後髪を引かれる思いで、
4時30分、ピークに別れを告げた。
帰り道は地吹雪のため、トレースが消えており、下降ルートを探すのに一苦労だった。日が暮れ、四人とも疲れてきていた。ただ早く安全な所で休みたいという気持でいっぱいだった。6時30分、やっとのことでデポ地点に達し、月光の下で四人が坐れる位の場所を作り、ツエルトをかぶってのビバークとなる。ブタンストーブを持って来ていなかったため、水を炊むことも、暖を取ることもできず、全く辛い夜となった。
6時、夜が明ける。長い長い夜のように思われた。空腹、陸眠不足、疲労のため身体はかなり衰弱していた。阪大の渡部隊員のことが頭から離れない。気を引きしめて一歩一歩慎重に下る。隊長、プルキパのサポート隊と合流し、下山風景を撮影している諏訪、後藤両隊員に迎えられ、みんなで、成功を喜びあった。私たちがビバークしたため、第二次アタック隊は中止となり、全員登項はならなかった。
カンジロバ・ヒマールにも厳しい冬の訪ずれが感じられた。私たちは彼女に最後の一瞥を与えて、懐しいべ−ス・キャンプへと急いだ。
註 登山活動にある高度で、ピーク以外は、すべて私たちの高度計に示された高度である。高度の補正を行なえなかったが、実際の高度はもう少し高いと思う。
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