カンジロバ・ヒマール主峰初登頂(4)

9. カンジロバ・ヒマール山域の地理的解明

 この山域の特徴であり、魅力でもある地理的解明に、私たちのできる範囲内で全力を尽くした。その結果を、便宜上次の三つに分けて述べてみることにしたい。

    @ パトラシ・ヒマール
 パトラシ・ヒマールは、北はカンデ・ヒウンチユリに端を発し、南はビジョラ・ヒウンチュリ(注7)までと考えられる。
1963年、東海大学隊は、日本人として初めてこの山域に入り、カンデ・ヒウンチユリ(約7000メートル)を発見。 同隊は1967年にもこの山域の探査を行ない、この山域の最高峰がカンデ・ヒウンチェリであると報告しているが、タイソンの精巧な測量により、その高度は6625メートルに訂正された。
 ジュムラ郊外から立派な白銀の峰が見えるが、タルフィの村人は、この峰を「ヴァッキヤ」と呼んでいた。ところがべ−スキャンプでは、この 「ヴァッキヤ」 は「ビジョラ・ヒウンチユリ」と呼ぼれていることを知った。この地域の住民は、同一の山を異なった別個の山と見なしているのか、あるいは眺める場所によって呼称が異なるのであろう。ところでティッヒーは、この白銀の峰をデュイ・タール・チユリ(二つの湖の間の山)と名づけた。一方、タイソンは、ジャグドウラ・レクの最高峰に、ドウド・クンダリ(デュイ・タール・チユリの現地民の呼称)と命名した。「白銀の峰」ビジョラ・ヒウンチェリと
ドウド・クンダリとは、明らかに別個の山である。とすると、ティッヒーはどちらの山にその名称を与えたのだろうか。この白銀の峰の高度は、タイソンにより、6860メートルから6404メートルに訂正されている。
 私たちは登山活動が終り、べ−ス・キャンプに帰ってから2日間にわたって近くの山に登ったり、ビジョラ・コーラ左俣を歩き、パトラシ・ヒマールの地形を明らかにすることができた。  

   A カン・ジエラルワ
 6660メートルを最高峰とするこの山群および地図の室白部を明らかにするため、登山終了後、奥田、後藤、沢田の三名はトレッキングに出かけた(沢田は岩友会隊についで二度目の踏査である)。
 私たちはフオクソンド・コーラの支沢を詰め、この沢が北へ屈曲する地点から少し奥まで入った。その結果、カン・ジエラルワの山群も沢にそって屈曲しながら北に伸び、第二高峰の主脈に続いていることが明らかになった。

   B 地図の空白部
 この山域でもっとも興味深い部分である。川喜田隊の写真にあった、また吉永定雄氏が提唱しておられた第二高峰は確かにあった。これは1969年に北から接近したタイソンおよび私たちの撮つた写真の中に写っている。そしてその南に低い無名峰が続き、一つはハンギング・グレイシャー・ピークスの最北峰につながり、他の一つは途中で二つに分かれ、一つはカン・ジエラルワ、もう一つはウエッジ・ピークからフリユーテッド・ピークにつながっている。第二高峰からは西に大きな尾根が出ている。無名峰も同じく北西に尾根が伸びて、それぞれの間には小さな氷河がある。第二高峰の北には川喜田隊のカン・ニュン・トン(注8)が続いている。
 私たちもこの第二高峰の周辺の地形を明らかにするため、ジャグドウラ・コーラを下り、途中よりハンギング・グレイシヤー・ピークスの左に入る沢を遡行したが、日数と食糧の制限のため、充分な調査ができないまま引きかえした。
10. む す び

 今遠征を振りかえってみると、カンジロバ主峰の登項により地理的解明に寄与することができたし、合同遠征の実現により他の遠征隊では体験できないことを教わった。すべてにわたって幸運だったといえる。ただ残念なことは、日数と食糧の関係上、地図の空白部を完全に探査できなかつたことだ。(1971年の大阪府山岳連盟隊により、この空白部もほぼ明らかにされたことを付記しておく。)
 タイソンの三回にわたる遠征により、また他の遠征隊により、ネパール・ヒマラヤでもっとも未知の山域として知られていたカンジロバ・ヒマールもしだいに明らかにされてきた。しかし、第二高峰周辺の地形、ジャグドウラ・コーラの遡行の可能性、各山群の名称の正当性など、探検的要素がまだ残されており、ヒマラヤの岩壁登挙が注目を溶びる風潮の中で、特異な登山ができる山域だといえる。
 なお、このカンジロバ・ヒマールの登山史において、タイソンの遠征がなかったら、私たちの成功はもとより、主峰は未だに「幻の山」として人を近づけなかっただろう。それだけに彼の業績は高く評価されるし、決して忘れられてはならない偉大な人物である。

(註1)1961年、雪崩のため森本隊長、大島隊員、ギャルツエン(サーダー)を失う。
(註2) 私たちは、帰国後「アルパイソ・ジャーナル」で、タイソソが 三度目の試みでルカ・コーラよりせまったが、登頂はできなかったことを知った。
(註3) タイソンの二度にわたる遠征により、作成された精巧な地図。 しかし、この山城の東方はまだ測量されていないため、地図が空白にされたままである。
(註4) 川喜田隊が撮った写真には、主峰とともにセカンド・ハイエスト・ピーク(6867メートル)と呼ばれる山が写っている(『山岳』54年、1959年)。この山は、1971年、大阪府山岳連盟隊により、10月25日に登頂され、ツオ・カルポ・カソ(6556メートル)と命名された(『山と渓谷』 401号)。
(注5)1967年、オランダのノルディック博士により、カン・ジエラルワ(Kang Jeralwa)と命名されている。
(注6) 註3と同じ。
(注7) これまでは1963年の東海大隊によりビザラ・ヒウソチユリ(Bizara Hiunchuli)と報告されていたが、ネパール側隊員の通訳により、ビジョラ・ヒウソチユリ(Bijora Hiun- chuli)の方が正しいことを確認した。
(註8) 註4の写真にカン・ニュン・トン(Khan-Nyung-Thon)と呼ばれる山が写っている。
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