未踏の山 ランタン・リルン(1)

広谷 光一郎

はじめに
 大阪市立大学は、旧大阪商科大学山岳部時代から前後五回にわたり台湾、樺太、朝鮮などへ遠征隊を送ると共に、幾多の登攀を行ってきたが、戦後総合大学として広汎な分野の部員ならびに先輩を持つようになってからは、1953年ヒマラヤ研究会を組織し、外地山岳の多角的な研究を進めてきた。そのかいあってか、1961年の母校創立80周年記念に当たって、大学、大阪財界のうしろだてが成り、先輩現役挙げての悲願が結実、ランタン・ヒマール地域に登山と調査を目的とした遠征隊を派遣することに決定した。
 私たちの遠征計画の推移は、ヒマラヤ研究会発足以来、タルン・ピーク(7349メートル)、トゥインズ(7350メートル)、ティルスリ(7074メートル)等が上げられ種々検討されていたが、ネパール政府の内外政状況、私たちの経験上の問題などから漸次焦点がしぼられ、首都カトマンズに比較的近距離にあり、しかも最近10年間に6回の遠征隊が送られたが、未だ部分的にしか踏査されておらず、また最近の2回が日本隊に依って踏査され、他の地域に比べ資料を得ることが、私たちヒマラヤ一年生には比較的容易であったことなどから、ランタン・ヒマール地域に決定した。
 この地域は1949年ティルマン、1951年アウフシュナイダー、1952年ハーゲン、1955年ランベール、1958年深田隊、1959年飯田隊などが部分的に踏査しており、登頂されたのはランベールのホワイト・ドーム(6830メートル)、飯田隊のサルバチュム(6700メートル)他で主峰のランタン・リルン(7245メートル)は勿論、ツンガ最奥のランタン・リ(7239メートル)、ポーロン・リ(7248メートル)など7000メートル峰の殆どが未踏峰と成っている。
 ランタン・リルンを最初に攻撃目標としたランベールは、隊の小規模が原因で他に転進、ついで飯田隊はリルン氷河登攀の困難性でサルバチュムに向かっている。
 私たちはリルン峰を偵察した深田隊、リルン氷河直下まで行き氷河状態をくわしく調べた飯田隊から偵察の状況を聴取し、両隊のもたらした貴重な写真をもとに計画を練ったが、未だ見ぬリルン峰攻略の計画は空を掴むようなものであった。
 私たちのそのような計画の批判をランベールに仰いだところ、彼のこの山に対する可能性に就いての意見と、私共のそれとが極めて積極的に一致するところを得た。即ちリルン氷河上部構造は不明な点が多いにしても、かならずや国境稜線に立つ見込みがあるということであった。
  

      40年前のカトマンズ空港                     ↑カトマンズ市内。当時は人口も少なかった

準備・出発
 準備段階においての問題は資料の検討で、飯田隊、深田隊、ランベールなどに連絡がとれたことは先に述べた通りであるが、それらから得られた資料によると、ランタン・リルンの地形的特殊性を充分に考慮した登攀用具、露営用具、通信機、燃料、食糧の必要性が研究の対象となった。
 そこで、これらの問題らついては種類毎に業者の協力を得て試作研究が重ねられ、最終的には秋の富士山での試験を行ったあと、再検討、改良を行い発注した。
 他方、ネパール政府への入山許可申請は、1960年5月末、外務省から行われたが、既に内諾を得ての申請で9月にには許可された。
 勿論、このような順調な歩みの中には、内外関係者の並々ならぬ協力の賜があったことはいうまでもない。
 入山許可内諾に前後してのシェルパ雇用問題、遠征資金の調達、学術調査方法の研究、出国交渉手続などの仕事が山積の中に、その年の10月、大阪市立大学ヒマラヤ委員会からメンバーが決定された。
    隊 長  森本 嘉一 (41) ターナー色彩
    副隊長 広谷 光一郎(28) 黒竜堂、医学博士
    隊 員 大島 健司 (26) 関谷産業(ボンベイ勤務)
         藤本 勇  (25) 世界長ゴム
         近藤 哲也 (24) 近畿建設事務所
         伴  明  (21) 大阪市大学生
 年明けてからは準備に拍車をかけると共に、最終手続きもすませ、2月17日隊員を二つに分け、広谷、藤本、近藤、伴の四名は神戸港からサード・ハナ号で出発。3月14日カルカッタに着いた。
 船中は大阪大学P29隊、全日本山岳連盟ビッグ・ホワイト隊らと同行し、愉快な船旅を送ることが出来た。3月2日、後始末を済ませた森本隊長、大島の二名が離日し、船組より一足先にカルカッタに到着した。
 カルカッタでは通関業者であるG・R・バルワラが三隊を一手に引き受けたためか、大量の荷物の陸揚げ、運輸の面に負担が大きすぎ、二週間の足止めをくい、全員カトマンズに合流したのは3月27日であった。私達はガネッシュワーにあるボート・ラナ氏の離れ屋を宿舎にして、キャラバン編成の仕事に従事した。
◆ シェルパ
 シェルパ雇用交渉は約1年前から始めたのであるが、ギャルツェンとの交渉の見通しが明るくしたのは、1960年の同志社大学アピ隊であった。私たちの森本隊長と親しかったアピ隊長津田康裕氏は、デオ・ティバとの予約以外に未だ交渉のなかったギャルツェンをして、私たちの隊に加わって貰うよう話をうまく纏めて下さった。その後の再三にわたる交渉は、カトマンズの正垣幸男氏および当時、社用で渡印していた大島が中心となり全て順調に進み、ギャルツェン自身にしても彼の性格からして、未知の地域への憧れを抱いていたようであった。
 
 私たちの雇用したシェルパは次の通りである。
  Sirder, Gyaltsen Norbu (41) (Darjeeling)
  Cook, Lakpa Tsering (40) ( 〃  )
  High Porter, Ang Dawa 4 (35) ( 〃  )
    〃   Pa Norbu (35) ( 〃  )
    〃   Mingma Tsering (27) ( 〃  )
  Local Porter, Sonam Tenzing (56?) (Phorhe)
      〃    Pasang Kame (26?) (Namche)
      〃    Norbu (27) (Kathmandu)
      〃    Pasang Tharke (23) (Kimde)
      〃    Kanchha (22) ( 〃 )
  Liaison Officer, Shri Krishna Amatya (28)

                 

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