未踏の山 ランタン・リルン(2)

◆ キャラバン
 3月31日、待ちに待った日がやってきた。森本隊長の日記には、こう記してある。
《5時起床。6時頃から前庭に続々とポーター連中が集まってくる。ヒマラヤン・ソサェテイの幹部連中立会いの下に番号札と共に荷物を分配、例の二本の色帯を付けたワイャーバンドボックス、古い二度目のお勤めのキャラバンバック(ヒマルチュリ隊)、背負子に付けたプロパンボンベ、米や粉の袋、ジュラルミン梯子……とさまざまの荷物をポーター達はうまく背負紐で前額にささえて担ぐ。
 午前8時、ギャルツェンの命令一下、一路カカニの丘を目指して出発した。隊員6名、シェルパ5名、ローカルポーター5名、ポスト・ランナー2名、リェゾン・オフィサー1名、ポーター108名、総重量3.5トンの大編成である。
 1年3ヶ月かかって、やっと山登りが始まった。また何をか言わんやである。》
  

        ↑キャラバン出発日                    ↑ドンチェ周辺でのキャンプ

 翌朝、カカニからの展望は実に素晴らしかった。朝霧の中にバラ色に染まったマナスル、ヒマルチュリ、P29、ガネッシュの山々を仰ぎ見て感激の言葉すらない。思えば再び、この丘に登って来て、亡き友の冥福を祈ろうなどとは夢にも思えぬ一瞬であった。
 キャラバンはこれより丘を一気に下り、谷間の主要な町トリスリ・バザールに入る。この辺からいよいよ登りである。山腹を上り下りしながら川に沿った山道の旅が続く。この街道はチベットに抜ける街道で、昔は隊商が群をなして通った旧道だそうだ。チベットとの国境には検問所が置かれていると聞いているが、奥地に入るに従って、村落もチベット化され、ラマ教の祈祷の旗やチョルテンが村々の入口に見られるようになった。
 キャラバンは常に7時頃ポーターが出発、隊員、シェルパ、ローカル・ポーターは朝食をすませて8時前に出る。途中、シェルパ達が先頭に出て、ローカル・ポーターが少し間をおいて続く。彼等はキャラバン中の炊事用具と食糧の一部を持ち、隊員は各自自由に歩く。15時頃先頭のギャルツェンとシェルパがテント場を選定して止まる。30分位して隊員が着くと紅茶が沸いているという寸法、ポーターは15時頃から17時頃までに着く。
 4月4日、ドンチェ手前のテント場から少し登り尾根の端を捲いたら、チョルテンの横から、目指すランタン・リルンが顔を出した。トリスリ河の源流、チベット国境の山波に続いて一段と高く、約6500メートルのリルン西稜の岩峰が雪をかぶり、三つの突起を東に越えて純白のランタン・リルン西面と南稜がクッキリと見える。西稜は南面がきつく、何処からも取りつけそうにない。
 私たちはその日、キャラバン6日目にランタン谷との合流点シャブルベンシーに着いた。シャブルベンシーは、トリスリ河の右岸からランタン谷が入り、立派な釣り橋がかかっていて、これを渡った本流側に30戸ほどの部落がある。
 ランタン谷の入口は非常に狭い谷となっていて、この地方の住民も通過しないらしく、道はこれより大きな尾根を越え、シャルパガオンに抜けランタン谷に入る。ヒマラヤの登山史に有名なティルマンが初めて紹介した"世界一美しい谷"、ランタン谷は広く、奥深く、しかも明るい緑の色がひときわ鮮やかに光る谷である。出発以来8日目、私たちはランタン部落に到着した。日本隊を迎えるのは三度目とあって、私たちは大歓迎を受け、その夜は一同部落の有力者の家に招かれ、ロキシーやチャンを大いに飲まされ御機嫌であった。ギャルツェンの音頭でシェルパや村娘たちの踊りが催され、その歌声が夜遅くまで山峡にこだましていた。
 4月8日、カトマンズのポーター達を解雇した私たちは、ポーターを編成替えし、一部の荷物をランタンに残し、最後のキャラバンに移った。

               

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