未踏の山 ランタン・リルン(6)
◆第二期登攀
隊長森本、隊員広谷、藤本、近藤、伴、ギャルツェン・ノルブ、ラクパ・ツェリン、アン・ダワ4号、パ・ノルブ、ミンマ・ツェリンら計十一人の一行は、快晴のリルン氷河を直登した。二週間振りの行動なので皆元気で楽しそうだった。森本隊長は次のように記している。
《五月八日、朝から素晴しい快晴、七時過ぎ出発準備、ローカル・ポーターのソナム・テンジン(1934年からエベレストヘ行つている古強者)がラマとなって、門出のお祈りをする。小高い所で一寸法師石楠花」をどんどん燃やし、お米をふりまきながら長いお祈りが姶まる。
私たちもリュックを担ぎ、時々米を天にまいて唱和する。
7時半出発。C1、9時20分、下のアイスフォールはセラックが溶けて、大分細くなっている。固定ザイルもはずれているところが多い。シェルバ五人が一つのザイルでルートをなおしながらゆっくりと行き、隊員は三人ずつ二本のザイルにつながって登る。中央部のスノーフィールドにはどこも凄いデブリで、全然形が変り、赤旗もなくなり、まったく新しい所のようだ。10時40分頃今迄に見た最大の雪崩、稜線直下のアイス・ビルディングの一部がこわされたらしい。スノーフィールドは敬遠しアイスフォール沿いに直登して、途中から上のアイスフォールに出る。11時頃からうろこ雲が出始め、12時頃から雪、C2着14時。狭いテント場にC1から荷上げしたカマボコ型テントをもうひと張り、向い合せとする。限られた場所だけに、ちょっと外に出るとクレバスに落ちそうで危いことである。
5月9日、朝のネパール放送のニュースで、インド隊のアンナプルナ第三峰登頂が5月7日成功した由、やはり刺戟される。慌ててもはじまらないが……。今日は8時半〜10時半まで晴、午後は例によってパラバラと雪。
天気予報は相変らず「雷と雪」、C2の唯一つの娯楽品「碁」のトーナメント、シェルバ連中は雪だるま作り、雪だるまと言っても彼等の作るのはハヌマン、即ち猿の神様。》
森本隊長の記録はここで切れているが、これは後日遭難現場で発見されたものである。
5月10日、晴れのち曇小雪。C2出発9時30分。前夜来の降雪でラッセル深く、急なキムシュン岩壁直下のリルン氷河河岸を、深くえぐり注意しながら迂曲を重ね、C3を目指した。
シェルバはトッブ交代を続けながら強引にC3に登る。私たちも二つのパーティーに分れ、それに続く。第一期のルートはすでに変り、わずかな足跡をたよってシェルパ隊は3時半頃、私たちは4時過ぎC3に着いたが、このC3の位置は第一期の時ちょっとした問題があった。
第一期の時、第三次工作隊が4日間滞在し上部の登路を開拓していたのだったが、その時二度もアイスブロックの襲撃を受けた。
丁度、隊長も一泊していて、テントに吹き込む爆風に一瞬ギョヅとさせられた。でもこの地形から考えてみれぱ、納得のゆく安全地帯でもあり、隊長はこの大雪原が駄目なら、この山には幕営地はないよ、とまで言っていた。
←C3のテント場。背後に巨大なアイスビルデイングが見られる
第二次工作隊が、この地点に初めて登ってキャンプ・サイトを選定した関係上、後でこの話を聞いた大島、ギャルツェンはひどく気にやみ、相談の結果第二期にはテントの位置を少しずらすことにしていた。
即ち第一期の時は大雪原の入口にテントを設営していたのであるが、今はその最南端にいるのである。C3は約15平方メートルの雪を踏みならし、入口を向い合せにし、便利に設営された。
夕食後降雪もやみ、静かな夕暮れのあかりの中に、遠くうっすらと雪山の美しく輝いているのが印象的であった。
これは明日の快晴を約束するかのようであった。食後、隊長はテントに全隊員とギャルツェンを呼び、明日からの登項計画を発表した。
第一登頂隊として広谷とギャルツェン、これを支援するは伴、パ・ノルブ、ミンマ・ツェリン、 第二登頂隊は大島と近藤、これを助ける藤本、アン・ダワ4号。
明朝は早めに出発して全員でC5に荷上げし、第一登頂隊を残し、C3に帰る。いつも賑やかなテントも一瞬緊張する。
私は10時過ぎセイロン放送を聞いて寝袋に入った。すでに隣りの大島隊員、向う隣りの森本隊長は深い眠りについていた。何となく寝苦しい夜だった。午前2時頃、私は小用のためテントの外に出た。風一つない。山は静かだ。満天の星空でリルンの頂きにも無数の星が輝いている。雪山はあくまでも壮大であり、かつ静かで眠ったように白く動かない。《明日はうまくゆくぞ!》
睡眠剤を飲み、私もいつか深い眠りに落ちていた…。
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