未踏の山 ランタン・リルン(7)
◆事故発生
(事故発生月目)1961年5月11日
(事故発生時間)午前4時45分(藤本隊員により記録された)。
(事故発生場所)高度5600メートル、リルン氷河上部大雪原中の第三キャンプ・サイト。
地形 リルン氷河は、高度6500メートル附近の稜線直下より出来た傾斜約40度の雪原より形成され、これは一旦約200〜300メートルの断崖により部分的に切断され、その下部の東西約1000メートル、南北約800メートルの大雪原に続いている。これより氷河は大雪原の南端にある岩尾根により左俣と右俣に分流し、更にその下部の高度5000メートル附近で再び合流し、変化の激しいアイスフォールを形成しつつ本流となり、ランタン谷に落ちている。
事故現場は、このリルン氷河の上部大雪原(東西約1000メートル、南北約800メートル)のC3であるが、図に示すように大雪原は殆んど傾斜なく、しかも雪原の中央部附近には高さ約20メートルの小山が東西に走り、小山の南面に
はクレパスを形成しているところもあった。
C3の位置 C3は雪原の南端(直下はクレバス群となり、岩尾根によって出来た濾斗状のルンゼとなつて右俣に落下している)に位置し、約300メートルの距離をもって岩尾根の頭が見られる。テントは約15平方メートルの雪面を踏み固め、三角形の頂点の位置に三人用ウインパーテントニ張、五人用カマボコテント一張が入口を向え合せにして張られ、図の第ニテントには藤本、近藤、伴、第三テントには森本、広谷、大島、第四テントにはギャルツェン.ノルブ、パ・ノルブ、ラクパ・ツェリン、アン.ダワ四号、ミンマ・ツェリンが夫々身体を交互にして睡眠していた。たおテントの位置より南側は、約三〇度の傾斜をもってクレバス群に続いている。
C3トは第一期登攀時(4月19ヒ日〜4月24日)のキャンプ・サイトであるが、第二期時に移動した理由は次の通りである。
第一期登攀時4月19日、大島、藤本、ギャルツェン、アン・ダワの四名はC2から登路を開拓、最終の荷上げをかねC3を大雪原の入口に設営し、下山した。その後4月20日、森本、広谷、伴、パ・ノルブが入幕、事実上のC3設営を完了したが、夕方4時頃爆風と共に小数の小氷塊の襲撃を受け、翌日テントの周囲にブロックを積むことを相談した。4月24目、広谷、近藤、パ・ノルブ、ミンマ・ツェリンの四名が睡眠中、未明再度の小規模の爆風を受けたが、ことなきを得ている。しかし、二張り張っている一方のテントのパ・ノルブは、小さな氷塊を体に受けていたし、又他方のテントの直ぐ横に約80立方センチの氷塊が転がり来ているのを、翌朝発見した。4月24日、指令で下山する際、相談の結果再度の氷塊の襲撃によるテント及び器具の破損を考慮して、テントをたたみ一カ所に集めて置いた。このような二度もの爆風と氷塊の襲撃で、危険性を感知した私たちは、森本隊長以下隊員及びギャルッェン・ノルブ、パ・ノルブ等と相談の上、氷塊の到達距離を計算に入れて、第二期登攀時には雪原の南端にテントの位置を定めることにしていた。5月10日、C3サイトに先着したギャルツェン以下シェルパ等は、上記検討の結果を忠実に実行し、雪原の最南端に三張りのテントを設営していた。
↑雪崩発生直後の写真
事故発生直後の状況 午前4時45分、爆風を受け眼ざめた。直後強烈なショックと共に全員雪崩に流され、第二のテントにいた藤本、近藤、伴は約50メートル流されテント外に投げ出された。なおテントは破損して附近に飛散していた。
第三のテントにいた森本、広谷、大島はテントごと(多分)流され、約100メートル下部にあるクレバス中に落ち、広谷のみテント外に放り出されクレバス中に埋没、約15分後に救出されたが、他は同テントと共に行方不明であった。
第四テントにいたギャルツェン・ノルブ、ラクパ・ツェリン、パ・ノルブ、アン.ダワ4号、ミンマ・ツェリンは雪崩と同時にテント外に放り出され、ラクバ・ツェリン及びミンマ・ツェリンのみクレバス上部の雪面にたたきつけられ、他はクレバス中に落下、アン・ダワ4号、パ・ノルブは埋没を免がれたが、ギャルツェン・ノルブは頭部を雪中に埋没していた。約15分後救出され人工呼吸を受けたが、既にこときれていた。テントは著しく破損してクレバス上部に引っかかっていた。
生存隊員、シェルパの負傷の程度は次のようであった。広谷=左顔面、腰部打撲。藤本=異常なし。近藤=異常なし。伴=軽度の打撲。ラクパ・ツェリン=背部打撲。アン・ダワ4号=異状なし。バ・ノルブ=胸部強打。ミンマ・ツェリン=胸部強打、肋骨骨折。
なお雪崩発生直前の状況を、ラクパ・ツェリン及びミンマ・ツェリンから聴取すると、次のようであった。遭遇した雪崩の起る数分前、ギャルツェン・ノルブはこれを感知(テントに吹きつけた比較的弱い風)し、すぐ横に寝ていたミンマ・ツェリンを起し、ベンチレーターから外部を観察させている。この時のことをラクバ・ツェリンも知っていたとのこと(炊事のため雪を溶かしにかかっていて、うとうとしていた)、ミンマ・ツェリンは観察の結果危険性のないことをギャルツェンに伝えた。従って数分後爆風が襲来した時、ギャルツェンのみ寝袋から出てベンチレーターから外部を観察していたらしいが、脱出することが出来ず事故に遭遇したと考えられる。(事故直後全員が寝袋に入ったままであったのに、ギャルツェンのみ寝袋から出ていたことがこれを裏付けている。)
第三テントの広谷と大島は、事故発生直前に雪崩による爆風であろうと話し合っているが、森本隊長は知っていないようであった。
↑三人の遺体の発見も出来ず、泣き叫ぶ者、放心状態の者。ただ冥福を祈るのみ
事故後の経過 生存隊員及びシェルバによって約一時間半、行方不明者二名の捜査を行ったが、氷塊は固化する上シャベル、ピッケルその他の器具が見当らず、捜査は困難を極め、生存隊員及びシェルパの疲労も激しく、また寒気が厳しいため一旦捜査を中止し、散失した装具、食糧を集めたのちミルクを沸かし、高所用食等を与え、重傷者の応急処置の後、再び捜査に従事する。隊員、シェルパの精神混乱状態より決断を下し、ギャルツェン・ノルブの埋葬を行うことにし、近藤、ラクパ・ツェリン、アン・ダワ4号はクレバス中に降り、遺品をはずしてクレバス中にギャルツェン・ノルブを埋葬した。
重傷者を除く他の隊員、シェルバはその間行方不明者捜査を続行していたが、発見出来たものは少数の遺品と装備類であった。その後全員集って三名の冥福を祈っていた時(9時20分)、突然稜線直下のアイス・ビルディング崩壊による雪崩を再び受け避難したが、多大の危険を感じ即刻下山することを申し合せた。散失した登攀用具を集めたものの、ピッケル(二本)、アイゼン(一足半)の不足による下山時の危険性を考え、全ての残存装備、食糧を放棄し、寝袋及び少数の個人装備のみを持ちC2に下山する。
元気なアン・ダワ4号を完全装備させ、重傷者を間に入れ、昨日登ったルートを静かに下った。C3出発9時30分、C212時30分着。
夕刻5時、ハンディ・トーキーによる定時通話がべースキャンプとの間にとられ、BCにいるリェゾン・オフィサーに事の一切を説明、C2から下部のアイスフォール突破が現在の装備では不可能であること、従って口ーカル・ポーターに予備のピッケル及びアィゼンを、12日早朝に荷上げするよう連絡した。4月12日午前9時過ぎ、ローカル・ポーター三名が要請通り荷上げして来た。重傷者を間にはさんでC2を後にし、BCに着いたのは夕刻であった。
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