未踏の山 ランタン・リルン(8)

冥福を祈る
BCに下山した私たちは、ただ茫然としては居られなかった。何から手を打つべきか、検討の余地はない。折返して登って来ている筈のポスト・ランナーと連絡を取り、一刻も早くこの知らせを送らねばならない。私たちは相談をまとめ次のような計画をたてた。
 @ツンガ氷河踏査計画を放棄する。
 ABCでの後始末は5月13目から四日間とし、5月17目にはBCを撤収、キャラバンを編  成して、予定通り5月23日にはトリスリ・バザールに到着するようにする。
 B関係各方面への報告書、連絡、報道発表等は隊長代行者、広谷をして一本化させる。
報告書の作成、キャラバン編成日程、ポーター雇用交渉、梱包作業、不要装備・食糧・燃料の処理等、仕事に追われてまたたく間に日は過ぎていった。
 5月15日、昨日ポスト・ランナーを迎えに下ったパサン・カメが、早朝彼等を従えてBCに帰着した。手紙の束の中に主なき手紙数通、自然と涙がこみ上げてくる。用意した便りを持って直ちに下山、カトマンズに急行するようたのむ。私たちの報告は四日後にはカトマンズに着く筈である。日本への電報も5月19日遅くには着く筈である。ポスト.ランナーによる誤報を恐れて、彼等には何もしやべらぬよう厳重に念を押した。
 昨日からソナムテンジンが、夜を徹してラマ教の経文を彫ってくれた50センチ四方の石碑を、BCとC1の間の小高い丘に担ぎ上げた。この丘の前方にはリルンの頂きが聳え、後方にはホンゲンドブケ、ナヤカンガ等の高峰が望み見られ、つい先月迄は深々と雪が覆っていたのに、今は花が咲き蝶が舞っている。沢山の石を集め、2メートル位築き上げ石碑をはめ込んだ。石碑にはMr.K.Morimoto,Mr.K.Oshima,Mr.Gyaltsen Norbu/Died/11.May,1961. O.C.U.A.C.(Japan)と記されている。彼らの好きだった酒をかけ、タバコをそたえた。隊長の愛用したハーモニカで亡き先輩の愛唱歌を吹奏した。シェルバたちはラマ教のお経を唱えながら、墓の周囲をグルグル回った。
今日まで涙を隠していた者も、この静かな葬式に臨んで目がしらを拭っていた。おりしも夕陽に染った峰は、永遠の眠りについた三人をじっと見つめているかのようであった。
 下山の足どりは重かった。壮大に聳えるリルンの主峰をふり返り、あの部落この部落で、そしてまたこの曲り角で、愉快に話し合った友はもういないのだとしみじみ思う。真紅の色も鮮やかだった石楠花はいつしか枯れ果て、青青とした緑だけが強烈な初夏の太陽にさかえていた。

↑オンマニパドメフム、リルン氷河で亡くなった三人の墓標

その後
 5月23日、キャラバン最後の日である。前日のテント地、ベトラワチから約二時間でトリスリ・バザールに入る。先発した藤本とK・アマツユア氏はトラックの手配、彼の厚意でネパール政府のトラックの交渉が成立し、24日午前中に配車すると伝えられた。年令的に話が合い、しかも苦労を共にして来た彼の私たちに対する処置は寛大であり、立派なものであった。
 バザール下手の空地に、私たちの最終キャンプが設営されると、まずポーターの解雇である。ランタンから一人の落伍者も出さずに、ここまで荷を運んでくれた彼等は、みんな愉快な喋軽者ばかりで、冷静さを失いかけていた私たちを、いつも笑わせてくれたものであった。
 午後4時過ぎジープが着き、朝日新聞デリー支局長の秋岡氏が尋ねて来られた。夜晩く、デリー大使館の松田書記官、通産省ネパール駐在技官恵下氏、共同通信杜清水氏も急行され、その夜は今後の処置問題、ギャルツェン弔慰金問題等について協議し、善処を計った。隊長とマネージャー大島を失って、途方に暮れていた私たちにとっては、各位の暖かい心情が大きな支えとなったことは言うまでもない。
 翌日カトマンズに着いてからは、屋台をひっくり返したような多忙さであった。報道関係とのインタビュー、肋骨骨折、或いは疼痛をうったえるミンマ・ツェリン、パ・ノルブ、ラクパ・ツェリンの政府要人立会いによる診断、ギャルツェン弔慰金問題、紛失物とパッキング・リスト作成の問題、荷物梱包運送の問題、シェルバ賃金問題(紛失物の件等)等である。
 5月27日、24日日本を発ったOB泉隆次郎氏が、蝶理株式会杜ボンベー駐在員光間氏と共に到着した。なつかしい顔である。国内の状況を聞き胸がつまる思いの中に、事の一切を報告し、すべてを泉氏が統率されることに決った。
 ギャルツェンの弔慰金については、ダージリンでテンジン・ノルケイ立合いのもとに未亡人に渡すことが決まった。
 負傷シェルパの問題に関しては、規定通り補償金を支払う手筈になっていたが、政府の医師立会いによる診断の結果は、快癒しているという以外に異常が見とめられないことが説明され、解決に至った。
 帰国準備のあわただしい中にも、泉救援隊長のユーモアな弁舌で、隊員たちは久しく忘れていた笑いを取りもどした。
 5月29日未明、私たちは遭難を知って応援にかけつけて下さった阪大P29隊の副隊長住吉仙也氏と共に、ジープを馳って朝霧のカカニの丘に向った。思い出のカカニの丘の夜明けは、モンスーンに入ったというのに晴れわたった空だった。はるかランタン・リルンが、多くの山々の問から山容をのぞかせて白く輝いていた。未踏の山、ランタン・リルンの登頂は天災の前に失敗に終り、隊長以下三人の尊い命を失った。いまもなお5600メートルのリルン氷河の中に眠っている亡き人々の冥福を祈りたい。
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