ランタン・ヒマール
近藤哲也
1 ランタン・リルン
4月4日、第一次遠征から三年間の空白を経て、再びリルン氷河のBCに立った。直ちに高度順応をかねて、アイスフォールと稜線上のアイス・ビルディングの観察及び南稜の偵察へと、あわただしく一週間が過ぎ去った。
第一次遠征時と比較して、アイスフォールの変動は非常に激しく、C2予定地のアイスフォール中央部では、崩壊と言うよりむしろ削り取られたような状態である。また国境稜線上のアイス・ビルディングにも、大きなクラックが二ケ所望見出来た。このような変動の激しさは、5月中旬再度観察した時に証明された。即ちアイスフォール下部において二ケ所が崩壊されていた。アイス・ビルディングの崩壊が、どれ程恐ろしいものかを体験している私達には、当然南稜ルートの偵察が繰り返され、多少表層雪崩の危険はあるが、南稜線上に到達出来るルンゼを開拓した。
4月13日、全員BCに集まり協議した結果、アイスフォールの正面ルートは危険性大きく放棄し、南稜ルート一本にしぼることにした。南稜直登ルンゼの取付点(4900メートル)にC1を設営し、コルへのルート工作と荷上げを行い、4月21日にコルのチョック・ストーン直下にC2(5600メートル)を設営した。C2は、コルに覆いかぶさる5メートル四方のチョック・ストーンの下に設け3三人用ウインバーテントをロックピトンで固定した。C1とC2の問は、このような下部の傾斜35度、幅20メートル、上部の傾斜45度、幅7メートルの急峻なルンゼでダイレクトに結ばれているが、C2の最大の欠点は収容人員が三名に限られていることである。初めて見た南稜の西面は、ランタン部落の背後まで切れ落ちていて、ルートとしてはリッジ通しに登るのではなく、西面の岩場を斜め左へとまき気味に登る。
4月23、4日、C2から上部のルート工作に出た隊員たちは、長時間のアルバイトの結果三角ピークの項上に立った。三角ピークとは、コルから最初に現われる三角形の岩峰であるが、実際は三角錐であって一面を東に向け、氷壁の二面を西と南に向けている。したがって、南稜上は平均傾斜60度の氷壁を登ることになる。三角ピークから上部のルートは、私達の期待に反して、あまりにも絶望的な稜線であった。
東面から傾察したテントの設営出来そうな雪のコルが、実は氷のナイフエッジの上に、雪庇状のキノコ雪が乗っているだけである。そのナイフエッジが続いて、すぐに急な雪稜、つまり二番目の岩稜が始まる。ついで三番目の岩綾の上には、キノコ状のアイス・ブロックが続き、キャンプ・サイトとすべきスペースは発見出来ない。さらに上には60メートル以上のアイス・ブロックが稜線上にオーバーハングしている。結論的にキャンプ・サイトがないこと、また荷上げルートとして登攀不可能であることが判明し、南稜ルートは放棄せざるを得ないことが明らかになった。
4月25日、C1に全隊員が集まり今後の方針を検討した結果、ランタン・リルンの項上は、雪崩の危険を覚悟の上でアイスフォール・ルートをとり、ラッシュ方式で敢行する以外に方法はないと再確認された。しかし私達は本年のアイスフォールの状態を考慮して、敬遠するのが賢明と考えた。
4月28日、ランタン・リルンを放棄し、25日間住みなれたBCに別れを告げ、未踏の山を求めてランタン・コーラの奥へとべ−スキャンプを移動した。翌日、ランシサ・カルカからさらに上へと、新らしいベ−スキャンをキシュンカ・カルカに設営した。広さ百メートル四方、枯草と短かい青草が交錯した中に、ヤクの大きな糞が点点とした広場。東にはカン・カルモ(別名ドーム・プラン 6830メートル)が、その名の如く純白のスケールの大きい姿で腰を据え、その右手即ち私達のBCの頭上に、ランシサ・ピーク(6294メートル)が覆いかぶさる様に私達を見下している。谷の上流は新旧のモレーン、大小の岩石を積み上げ、モレーンの集合所の観を呈している。
隊員も二、三日前からの放心したような虚脱状態から脱し、元気を取り戻して来た。周辺の未踏峰と期間とを考慮して、隊を二分し、近藤、門田、佐々木の三隊員とシェルパ二名をもって、キュンカ・ピーク(6979メートル)、清原、伴、常慶の三隊員とシェルパ二名をもってウルキンマン(6397メートル)の2未踏峰を攻撃することにした。
2、キュンカ・ピーク登頂
キュンカ・ピーク(6979メートル)はランタン氷河右岸の、ネパールとチベットとの国境稜線にそびえ、正面に十数段の岩棚を形成し、岩棚下部に500メートル平方の雪原を持っている。それから数百メートルのアイスフォールとなって、キュンカ氷河に落ちている。その左稜線即ち国境稜線及び右稜線共、岩と氷のミックスしたナイフエッジで、C2のキャンプ・サイトの発見が問題だと判断した。C1をキュンカ氷河どん詰りのモレーン上5050メートルの地点に設営し、C2はキュンカ・ピークのふところとも言うべき、雪原上5700メートルに設営した。
4月30日、隊員3名、シェルパ2名、ローカルポーター3名の総勢8名は、約35キロの装備食糧を背に、BCを後にしキュンカ氷河最奥にC1を設営し、隊員3、シェルパ1の4名がC1に入った。翌日、C1の4名はアイスフォールのルート偵察及びC2への荷上げに向い、アイスフォール右端を廻り込んで雪原上に達した。このような高度に平坦なスノウ・フィールドがあるとは意外で、絶好のC2設営地であった。
5月2日、BCからのサーダー、アン・テンバを含むシェルパ2名の応援を得て、昨日荷上げした雪原上にC2を設営する。その間BCからC1及びC2への荷上げはどんどん行われ、C2は強固な前進基地となり、近藤、門田、佐々木の3隊員とサーダー、アン・テンバ、ミンマ・ツェリンの2名、ローカルポーター1名の頂上への戦いの場所となる。C2からはランタン・ヒマールとジュガール・ヒマールの境界の山々が一望出来、1962年日本隊が登項したビッグ・ホワイト・ピークが、また中央に私達の隊が行動を起しているウルキンマンが望見出来る。
5月3日、C2の5名は、C3設営地の発見及びルート工作に早朝5時半C2を出発し、右稜線に取り付く。稜線への雪壁はきつく、尾根上に達したのが8時30分、考えていたよりさらにきつく、氷のトラパースや岩峰の登攀の連続で、C3のキャンプ・サイトは発見出来ず、6500メートルの地点に達したのみで引き返す。氷壁の下降には相当な時間を要し、C2に帰着したのは21時30分だった。右稜線からの登攀は完敗で、明日から、ルートとしては長いが、C3のキャンプ・サイトの確実な左稜線、即ち国境稜線に取り付くことにする。
5月4日は昨日の20時間に近い行動のため、隊員の疲労を考え全員休養とし、私は隊長への連絡かたがたBCに下る。
5月5日、佐々木隊員とミンマ・ツェリンの2名は、鞍部までのルートに8本計320メートルのフィックス・ロープを固定する。
5月6日、C2の全員はC3設営のため7時30分出発、ルンゼの取付まで快調に進み、岩の壁をトラバースしてルンゼに入った頃、9時30分上部岩壁からの落石でサーダーのアン・テンバは大腿部を負傷、歩行困難となる。直ちに門田ドクターの診察によって、C2から一挙にBCまで下ろすことにした。
5月7日、昨夜の積雪は20センチにもなり、ルンゼの雪の状態を考慮して沈滞とする。4月末からの好天がいつまで続くのかと心配し、また2名のメンバーの欠除を考慮して、明日、近藤、佐々木の二隊員とミンマ・ツユリンの3名にて、一挙に項上を攻撃するのが良策だと判断した。
5月8日、快晴、早朝2時ローカルポーターの声に眠りをさまされ、熟睡出来なかった目をこすりながら、食欲の起らないスープとアルファ米を無理にお替りして、寝袋から出た。簡易テント、高所服、石油ストーブ等をキスリングに丹念に入れテントを出る。満天の星空のもとにキュンカ・ピークの岩肌が無気味に光っている。雪原を横切り、一昨日デポしたルンゼの中間点に達した頃から、対岸の山々に朝日が当り始めた。下部ルンゼを登り切った地点から、国境稜線に向って岩のバンドが300メートル程上っている。氷壁と岩壁との接続部は氷化したチムニーとなり、フィックス・ロープが固定されている。国境稜線直下の氷化したルンゼを、ステップ・カッティングしたアイスボールをかぶりながら、国境稜線の鞍部6200メートルのC3に達した。9時半と言う時刻と終日続きそうな天
候、隊員の調子をにらみ合わせて、3名共ビバーク用全装備をここに置き項上に向うことにする。国境稜線のチベット側は、ネパール側の岩の切り立った壁に比して氷の斜面が続いている。しかし、その斜面もこれ程の高度にかかわらず、クレバスが数多く開いている。項上への稜線には三つの岩峰があり、それぞれ氷のジャンクションを持っている。40メートルのザイル一本では、三人の確保は無理だと判断して、フィックス・ロープをセカンドからサードの間に用いた。1961年にもミンマ・ツェリンとロープ・パーティーを組み、ランタン・リルンの稜線6500メートルに達したこともあって、彼とは隊員同様気心は知れている。完全に切り立ったネパール側と、大きな氷河が入り込んでいるチベット側を眼下に、アイス・カッティングと確保の連続は、時間の経つのも忘れて無意識に動作していた。
二つの目のピークに立つと、項上は間近かに見え、あと60メートル、いや100メートルかと思いながら、ゆっくりと登った。13時55分項きに立つ。頭上はネパール側に2メートル程雪庇が張り出し、その上は氷の斜面となっている。続いて佐々木、ミンマ・ツェリンが項上に立ち、高度計、測量のハンドレベル、チベット側のスケッチ等、次から次へと項上での仕事をすまし、テントを出てから二度目の食事をする。1時間近く項上で過し、ガスの中強い風でも別につらさを感ぜず下降に移る。テントに帰着したのは21時0分、待ち構えていた熱いお茶、チキンラーメンを食べ寝袋にもぐり込む。このような短時日に、少人数で7000メートルに近い山が登頂出来た要因を振り返ってみると、第一に10日間もの好天が続いたことが最大の幸運で、第二にBCからC1及びC2への物資の補給が確実迅速に行われたこと、第三に全員が非常なファイトをもって行動したことがあげられると思う。
3、ウルキンマン登頂
ランシサ・カルカから見ると、東方の谷間の奥に純白のビラミダルな山容が、夜明けの星のような清列さで輝いていた。ランタン・ヒマールとジュガール・ヒマールとの境にある小さな未踏峰ウルキンマン(6397メートル)の意味は、東方の星だとシェルパが言う。私達がこの山に登ろうと思ったのは、スターサファイアのきらめきにも似た、そ の美しさに魅せられたためかも知れなかった。
4月30日、清原、伴、常慶の三隊員とシェルパ2名、ローカルポーター2名はBCのキシュンプ・カルカを出発し、ランシサ・カルカからトゥルバイク氷河に入る。左岸のモレーンとカンジュンの岩壁の間を進む。左のランシサ・ピークは下部を大岩壁に囲まれ、背面の懸垂氷河しかルートはないだろう。左前方に見えるどっしり落着いた山は、ドルジェ・ラクパ、いまスイス隊がC2まで建設中とのこと。
ウルキンマンを正面から見ると、右の稜線は雪の台地を二つ作って下部は岩壁となり、正面は急峻なアイスフォールが崩れ落ちてルートはとれず、左も岩と氷壁で武装されている。右下のアイスフォールをつめて岩壁を右側へ廻り込み、裏から右稜線へ出る以外にルートはなさそうだ。岩屑の散乱する氷河の端にC1を作る。
5月1日、ウルキンマンとカンジユンの間には氷河が入っており、高度差200メートル位のクレバスの少ないアイスフォールを形成している。右のゆるい雪面をルートにとるが、雪が腐って膝までもぐる。雪斜面を登り切ると雪原へ出る。ウルキンマンの裏、つまり南面は200メートルの岩壁が続いていて、一ケ所その岩壁の間を縫って走っているクーロアールが登路になりそうだ。
5月3日、細いクーロアールは稲妻型に曲っていて、雪は続いているが三つの小さな滝を持っている。アイゼンは良くきくが傾斜がきついため、かなりのアルバイトを強いられる。滝を二つ登り左へまき気味に岩帯を抜けると、やっと200メートルの岩壁の部分は終る。雪のリッジ伝いに第一プラトーへ出た。テントを30位張れそうな広いプラトーだ。さらに雪の斜面を登って、第二プラトーまでトレースして引き返す。ここから見るとさすがにランタン・リルンは高く、相変らず項上はガスに包まれて見えない。
5月4日、第一プラトーへC3を設営し、清原、伴、常慶の三隊員とミンマ・ツェリンU号が入る。
5月5日、6時起床、直ちに全員出発する。第二プラトーから眼前に300メートルの氷壁が立ちふさがっていて、青磁色の青氷となっている。左の稜線へ出れば幾分傾斜がゆるいのだが、クレバスが大きくて渡れず、右の稜線へも取付くことが不可能で、結局氷壁に取組む。傾斜50度位で一歩一歩アイス・カッティングのため時間のかかることおびただしい。全然ビレー出来ないので、4人ともザイルなし、頼れるものは上へ上へと登ろうとする自分の意志と、ピッケルとアイゼンのみ。4時間半一度の休みも無くカッティングを続けて、11時57分ウルキンマンの頂上に立った。雪ばかりで岩は無く、三方からのリッジの終点だった。ガスの中で型通りネパールの旗、日の丸、市大旗をピッケルに結んで写真をとる。早々に昼食をすませて下山にかかる。
吹雪き出して視界はゼロ、吹き上げてくる雪に顔をたたかれながら一歩ずつ慎重に下る。アンザイレンはしたが、気安めにすぎず、神経がすりへる下降だった。登りと同じく4時間半かかって、やっとCVにたどりついた。
5月6日、C1へ、さらに全員BCに帰着した。
4、ランタン・ヒマール
ネパールの首都カトマンズから、わずか一過間の近距離にあるランタン・ヒマール。ヒマラヤで一番美しい風景の一つに数えられるランタン・コーラ。谷の上流には平坦な草地が展けて、高山植物が咲きみだれ、周囲には氷の峰々がそびえている。また最近にはキヤンジン・ゴンパにヘリコプターまで発着出来るというヒマラヤの一等観光地だ。
このようなランタン・ヒマールに、早くからヒマラヤの先駆者は足跡を残している。
1949年にティルマン、1951年にアウフシュナイター、1952年にハーゲン博士が夫々ランタン氷河の隅々まで踏査している。
1955年、ランべ−ルがランタン氷河からカン・カルモ(ドーム・プラン、ホワイト・ドーム、6830メートル)に登項した。
1958年に深田隊がガンジヤ・ラを越えてランタン・コーラに入り、ランシサ・カルカまで入っている (「山岳」第五三年参照)。
1959年飯田山岳会の山田隊は西サルバチュム氷河から、サルバチュム(6700メートル)に登項し、さらにランタン氷河に足をのばして、数多くのランタン氷河の山々の写真をもたらした(「山岳」第五五年参照)。
1961年、第一次大阪市大隊はリルン氷河に入りランタン・リルンヘ、アイスフォールから登項を試みたが、国境稜線6500メートルの地点に達したのみで敗退した。5600メートル附近の雪原に設営したC3において、雪崩に遭遇し、森本隊長、大島隊員、ガルツェン・ノルブの3名を亡くしている。しかし、その登攀期前に、ランタン氷河に入り周辺の山々、氷河の状態を観察した(「山岳」第五七年参照)。
1963年秋にイタリア隊が、ランタン・リルンを目指したが、アイスフォール中央部にC2を建設して、C2上部の岩稜を登攀中スリップ事故を起して隊員一名が死亡した。キムシュンの三つのピークより下の岩峰に登頂し、さらに西サルバチュム氷河からサルバチュムに登項したと思われる。
その間に、カトマンズ在住の登山家が数多くランタン氷河に入っている。1962年には英国の駐ネ武官カーネル・ワイリーが、ランシサ・ピークの背後に入り周辺を踏査した。また米国の平和部隊の三名は、ハーゲンのコルに達している。
1964年には第二次大阪市大隊が、また英国のシャフスバリー伯爵がスイスのガイド三名を隊員にし、トゥルバイク氷河からドルジェ・ラクパ(6988メートル)に登項を試みたが、項上直下200メートルで引き返している。秋には田村宏明氏がシェルパを連れてランタン氷河に入り、周辺の山を踏査している。
ランタン・ヒマールを本格的に測量したのは、ハーゲン博士であるが、私達が第一次、第二次ランタン・ヒマール遠征の折に概念測量したデータを総合すると、高度について数多くの疑問がある。例えば私達が登項したキュンカ・ピークは約6750メートルと思われ、さらにその北に存する無名峰(私達はモリモト・ピークと称したい)は、6880メ
ートル前後と思う。(ランタン・ヒマールの山名や高度については、深田久弥『ヒマラヤの高峰』第四巻92頁以下にかなり詳細な解説がある。ついて見られたい------編者)
附 記
大阪市大ヒマラヤ遠征隊1964年のメンバーは、
隊 長 鈴木武夫(40歳)
副隊長 近藤哲也(27歳)
隊 員 門田嘉弘(30歳)
清原鉄也(27歳)
伴 明 (24歳)
常慶和久(23歳)
佐々木惣四郎(21歳)
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