ランタンリルン登山報告

林 孝治

ナヤカンガから見たランタン・リルンとキムシュンの三本槍

大阪市立大学山岳会の皆様にはいつもお世話になり、ありがとうございます。昨年の秋に、大阪市立大学隊によって初登頂されたランタンリルン峰(7234m)に行ってきましたので報告します。

99年〜01年にかけて、ペルーアンデス、アコンカグア、デナリ(マッキンレー)などヒマラヤ以外の山が続いていたのでヒマラヤに復帰したいと思っていました。01年秋にランタン谷のヤラピーク(5530m)にヒマラヤ初心者を連れて行く計画があったのですが、「それだけじゃもったいない」という想いから急遽、ランタンリルン登山を計画したのが、7月末、出発の2ヶ月前のことでした。
当初からのヤラピークに6名、ランタンリルンの順応登山のナヤカンガ(5844m)までの参加者が2名、ランタンリルン本隊が8名の計16名という大部隊が出来上がりました。
ヤラピーク、ナヤカンガ隊は54歳から67歳までの典型的な中高年ヒマラヤ登山隊ですが、それでもヤラピークには全員が、ナヤカンガにはビデオカメラマンの1名を除く全員が登頂しました。
ランタンリルン登山隊のほうは、プロガイドでブロードピーク縦走など8000m峰5座に登頂している北村俊之(38)、同じくプロガイドで2座に登頂、最近ではペルーアンデスに足しげく通っている平岡竜石(32)、それに副隊長の榊原義夫(47)とバリバリのヒマラヤニストの他、アコンカグアやデナリなど多くの6000mクラスに登頂し、7000mクラスの経験もある国枝宏子(61)と小西圭子(52)。ヒマラヤは2度目ながら、昨年、参加して登頂したバルンツェ(7129m)遠征のために福井市役所を辞めた竹内一志(38)。それに海外はキリマンジャロやモンブラン程度でヒマラヤは初めての今井昂司(62)。そして隊長の私というというメンバー構成です。
ネパール人スタッフは、ランタンリル本隊にクライミングシェルパ2名の他、コックやキッチンボーイなどのBCスタッフを雇用し、私達がヤラピークやナヤカンガの登山をしている間に、BCを建設し、さらにABC、C1yへとルートを延ばしてもらうという同時並行作戦としました。
サーダー(ネパール人スタッフのリーダー)兼クライミングシェルパのギャルツェン・シェルパは労山チョモランマ隊でチョモランマに登頂した他、日本隊でランタンリルンの登頂経験もあるそうです。
もう一人のパサン・シェルパは日本隊は初めてですが、インド隊でカンチェンジュンガに参加した経験があるそうで、出遅れた登山隊にとっては良いシェルパが見つかったものだと喜んでいました。
ルートは、大阪市大一次隊、三次隊がルートにとったリルン氷河ルートは、氷河自体が大きく後退していて、取り付くのが困難な上、やはりロシアンルーレット的な要素が大きいので、二次隊がルートに採った南東稜ルートを採る事にしました。大阪市大隊の初登頂以降、15〜6登ほどされているようですが、南西稜からの一隊を除いてほとんどが南東稜からのものです。

ネパールでは、昨年6月に前国王暗殺事件が発生し、それに抗議した市民の街頭抗議運動が暴動に発展してカトマンズは一時混乱しました。
そして、一方では以前よりマオバディ(ネパール共産党毛沢東派)が地方の警察署や政府関係の施設を襲撃し、多くの警察官などが殺害されて、警察官が逃げ出してしまって、ネパール政府の統治が及ばないという地域もありました。
そこに同時多発テロが追い討ちをかけたので、今年は観光客やトレッカーが大幅に減少。秋季の登山隊も20数隊という少なさです。観光立国ネパールにとっては大きな打撃となりました。
8月〜9月にかけて、ネパール政府とマオバディとの対話が進み、一時、雪解けムードかと期待したのですが、交渉は決裂。マオバディは武力闘争を再開し、カトマンズやその近郊でもテロが発生、ネパール政府は、11月に非常事態宣言を発令し、マオバディの討伐に軍隊を投入・・・と、急激に事態が進展しています。
私達の出発は同時多発テロの2週間ほど後で、アメリカのアフガン侵攻も予想される状況でしたが、キャンセルする人もなく、またカトマンズ路線はどれも満席に近い状態でした。

9月29日、一日遅れでネパールに到着する北村を除く15名がカトマンズに集結し、ヤラピーク、ナヤカンガ隊ネパール人スタッフとともにランタン谷に向けて出発しました。ランタンリルン隊のネパール人スタッフと隊荷は翌日の出発です。
ランタン谷は今ではトレッキングの代表ルートの一つですからドンチェ、さらにその先のシャブルベンシまで車で入れ、シャブルベンシがキャラバンのスタート地点です。
ドンチェの少し手前の所は例年、モンスーン明けは土砂崩れが起こって、車が通れなくなり、今年も車を捨てて徒歩で通過し、向こう側に残されたバスに乗り換えて先に進みました。また、そこから少し先には軍隊の検問所があってヘビーチェックがあります。ここから先はチベット国境に近い所ですし、以前、反乱を起こしたカンバ族(ダライラマの護衛兵)が移住させられたことから、ご法度の武器類が探索されるほかに、撮影料の外貨獲得目的でビデオ類を探しているようですが、日本人には友好的で、チェックも甘くなります。
シャブルベンシからはランタン谷を辿り、ラマホテルで一泊、次の日の夕方、ランタン村に着きました。
ランタン村は今では全戸に電灯が灯るようになったそうで、新しいロッジも増え、さらに建設中のものがたくさんありました。大阪市大一次隊の遭難碑は銅板の端が少し浮いていましたが、前回訪れた時とそんなに変わっていませんでした。
キャラバン3日目の午前中には最後のロッジがあるキャンジンゴンパに到着。ランタン谷のアプローチは雲量が多く、イマイチ展望は得られず、時折雨が降って、まだモンスーンが明けていない様子でした。
キャンジンゴンパを拠点にして、キムシュン氷河の末端付近(4200m)まで、さらにツェルゴ・リ(4800m)と高度順応を進め、第一の目標、ヤラピークには全員が登頂しました。この日から天候が良くなってきて、モンスーン明けを思わせました。
キャンジンゴンパに戻ったメンバーのうちヤラピーク隊6名は、ヘリであっという間にカトマンズに戻り、帰国の途につき、残りのメンバーは続いてナヤカンガに登ります。
ランタン谷左岸、すなわちランタン谷を挟んでランタンリルンの対岸、ガンジャラの隣にあるのがナヤカンガで、いわゆるトレッキングピークの一つです。
ナヤカンガ峰では二波に分かれて登山活動を行い、一次隊(北村、平岡)は通常のルートよりの登頂でしたが、例年より雪が少なく、落石が頻発するガラガラのところを登り登頂しました。
10月9日、二次隊は落石の危険を避けて、急峻な雪の続いたルンゼをルートにとりました。ルンゼを登りきって、尾根に出て、しばらく尾根上を行き、急な雪壁を登ると頂上です。頂上からは東にシシャパンマ、西にマナスルを遠望でき、「マナスルは、今日は絶好の登頂日だなあ」と話し合っていたのですが、この日労山マナスル隊の一次隊が登頂したのをあとになって知りました。
ハイキャンプで一泊したあと、麓のキャンジンゴンパ(3800m)に戻った12日は、午前中から荒れ模様となり、ランタン谷を挟む山々は瞬時に白くなりました。
私たちはナヤカンガのタイミングの良い登頂を喜んでいたのですが、その時にマナスルで労山隊の悲劇が起こっていたのです。労山マナスル隊の二次アタック隊が1名死亡、近藤隊長ほか1名が上部に取り残されるという事故が発生していました。私たちはそれを知る由もありませんでしたが、それを知ったならば直ちに救援に駆けつけたことでしょう。

その後、ランタンリルンのBCに移動、本格的なランタンリルン登山が始まりました。
BCは大阪市大隊と同じ場所で、BC横の小高いところには大阪市大一次隊の遭難碑がありました。
当初、藤本さんから、森本隊長、大島隊員、ギャルツエン・ノルブの名前を刻んだ石版がBCに転がっているようなので、下山する際にはランタン村に降ろしてくれと頼まれていたのですが、ランタンリルンを望む小高いところにしっかりしたケルンが建てられ、そこに組み込むような形で石版がはめ込まれているので、それを取り出すにはケルンを壊さねばなりません。私はこここそが三人が眠るにはふさわしい場所と思い、勝手ながら、そのままにしておきました。
そのケルンのところに祭壇を設け、隊員のための安全祈願のプジャを行い、早速、登山活動の開始です(ネパール人スタッフのためのプジャは既にヤラピークの前に、隊長が参加して行っていましたので、私にとっては2度目のプジャになりました)。
BC(4200m)からは、南東稜側面の草付き斜面をゆっくり登ってABC(アドバンスベースキャンプ=4800m)まで1時間半。そこで装備を整え、南東稜の細い取り付きルンゼに向かいます。大岩がごろごろするエンドモレーン上を約1時間で氷河に入ります。大きく深いクレバスに1箇所かかっている今にも崩れそうなスノーブリッジを渡って5Pほど登ると幅10mにも満たず、両側が切り立った岩壁に挟まれた細いルンゼが始まります。そこを10Pほど登ると大きなチョックストーンがあり、南東稜のコルに至ります。
すでにクライミングシェルパによってここまでルートが作られていました。
南東稜のコルからは南東稜上にルートを取るのですが、両側ともスッパリと切れ落ちておりテントを張るスペースがありません。当初、チョックストーンのところのわずかなスペースに2人用テントを張ってC1を建設したのですが、3分の1ほどが空中に出ているありさまで、カラスにテントを破られたこともあって、もう少し上になんとかスペースを確保して小型テント2張りでC1を作りました。

BCを朝8時から9時頃に出発すると、そのときには雲ひとつ無かった空もこのあたりに来る頃には南東稜を越えてやってきた雲が頭上に広がり、雪が降り出します。降雪量はそれほどたいしたことがなくても、漏斗状のルンゼに集中し、見る見る間にルンゼ内に滝のように雪が流れ、傾斜の落ちたところには大量に積もって、深いラッセルとFixロープの掘り起こしが必要になります。
C1から上はもろい岩稜、雪稜と岩壁が交互にあらわれ、なおかつその間に懸垂で下降するギャップがあって、不順な天候も重なり、なかなかルートが延びず、BCで停滞する日が続きました。

今井隊員は、昔はバリバリ登っておられたようですが、ブランクが長く、ランタンリルンは手に負えないことがわかってきましたので、この間に登山活動を断念し、カトマンズに戻り、アンナプルナ方面にトレキングに行くことになりました。
また、当初、良いシェルパが見つかったと喜んでいたのですが、サーダー(シェルパ頭)は酒好き、博打好きで、ある時BCからキャンジンゴンパに「タバコと電池を買いに行って来る。翌日には(村から)ダイレクトでC1に上がり、戦列に復帰する」とのことでOKしたものの、私たちが上部で活動を再開しても約束を違えて村に留まったままで戻ってこないという背信行為がありました。村の飲み屋?の女性に無線機で我々の行動を探らせたり、「すぐに戻って来い。戻ってこないと、くびにするぞ」という警告に「既にBCまで戻っている」と嘘をついたり、でたらめな口実をしたりして傷口を広げたので、結局、彼を解雇しました。そのため戦力が低下したことは否めませんが、不愉快な想いをせずに登山活動ができるようになったことはプラスであったと思います。あの時期まで経歴がある有能なシェルパが残っていることに疑問を持たないことは私達のミスかもしれませんが、責任を感じたエージェント(コスモトレック)は後日、シェルパの装備費の半額を返してくれました。

BCに滞在し、たまたま日本の短波放送を聞いている時に、群馬岳連の3人がダウラギリ東壁で行方不明になっていることを知りました。
次の日、病気で娘が亡くなったとの連絡を受けてカトマンズに戻っていたキッチンボーイがBCに復帰しました。彼は労山マナスル隊の事故の知らせを持ってきて、初めてマナスル隊の事故を知りました。近藤隊長はじめ隊員のほとんどが一緒に登山した仲間です。事故発生から既に10日以上が経過し、亡くなった隊員以外は既にカトマンズ、あるいは日本に戻っているとのことでしたが、昨日キャッチしたダウラギリの事故もあって、カトマンズはごった返しているだろう、何か手助けが必要ではないかと思い私と国枝、小西隊員は登山活動を中止してカトマンズに戻りました。結局、カトマンズではあらかた処理が済んでいて、いずれもの隊のエージェントであるコスモトレックのオフィースはひっそりしていました。カトマンズに戻った私達は、モチベーションが下がってしまい、再びBCに戻ることはありませんでした。

ランタンリルンのほうは榊原副隊長を中心に登山活動が続けられ、天候の合間を縫って氷冠の下に初めて現れた平坦な場所であるプラトーにC2(6200m)を建設しました。当初の予定では6500mから6700mくらいにC3を設ける予定でしたが、登山期間のタイムリミットも迫ってきたので、C2から長駆アタックすることにしました。
BCで休養した後、榊原、北村、平岡がアタックのためC2に入りました(竹内は既にこの時点で、登頂を断念していました)。同日、C2から氷冠下までルート工作を終え、氷冠を突破するルートも確認して翌日のアタックに備えました。ところが、アタックの朝には今までにない大雪が降り、北村と榊原は1回目のアタックを中止してBCに戻りました。
平岡は帰国日が迫っていたので、これが最後のチャンスです。もう1日C2に留まって、翌日単身でアタックを試みるつもりです。翌日、平岡はC2を出発しましたが、やはり雪の状態が良くなく、結局アタックを断念。平岡のランタンリルン登山は終わりました。
榊原と北村はキャンジンゴンパに下りて休養。ちょうどこの時、榊原の支援トレッキング隊がキャンジンゴンパに上がってきていて交流したのですが、「どうも、この時風邪をうつされたようだ」とは本人の弁。
BCに戻った二人はラストチャンスとなる2回目のアタックのためにC2に入りました。しかし、まず北村が体調すぐれずに断念。榊原も体調が良くないので断念。結局6300m付近を最高到達点にしてランタンリルンの登山活動は終わりました。

ランタンリルンには何時の日か捲土重来を期したいものですが、あの困難な山に執念を持って取り組まれて勝ち取られた大阪市大山岳会の初登頂は誠に敬服に値するものだと感じました。
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