ランタン・リルン登頂(2)
★ アイスフォールとの闘い
↓クレバスとセラックの迷路の中を荷上げが続く
9月9日、雨のベース・キャンプ(BC,4200メートル)入りした私たちは、ランタンコ―ラ対岸のガンジャラチュリへ高度順化のためのトレーニングの後、9月22日よりリルン攻略を始めた。
過去二度のプレモンスーン期とちがい、ポストモンスーンのアィスフォールの荒れ方はひどかった。幅約500メートルの下部アイスフォール地帯は、いたるところセラックの崩壊がはなはだしく、崩壊跡が無気味な青磁色に光っていた。数限りないクレバスをとび越えたり、ジュラルミン製ハシゴをかけて、時を選ばぬセラックの崩壊に肝を冷やしながらも、ひたすらアイスフォールの中央突破をはかった。
9月29日に第一キャンプ(C1、4800メートル)を建設したが、まだモンスーンが終わらぬため、連日の悪天候で雪崩が頻発した。雪崩については、入山以来、毎日何時どこからどこへ落ちたかを記録して雪崩地図を作成しており、C1はアイスフォールの真中にあって安全な筈であった。ところが、リルン東南壁の雪崩道を滑り落ちる雪崩の余波が、テントをゆるがす爆風と雪片を伴って三度、四度と襲い、ついにはテントのポールが折れた。特に10月5日の降雪時の爆風の来襲には、夜を徹してテントを支え、翌6日やむなく全員BCに下山せざるを得なかった。
10月7日から始まった快晴を利用して、10月9日、4900メートルの地点にC1を張りかえ、私たちは第二キャンプへのルート工作にかかった。上部アイスフォールは、一段とクレバスの幅が大きくなり、雪崩道を避けて通過するにはハシゴを二台つないでも渡れない。結局、日数、装備などを考えた結果、イタリア隊の試みたインゼル尾根を直登することにした。
10月12日(快晴、午後2時より曇り)、C1の西村、義本、片岡はとりあえずインゼル尾根がルートとして使えるかどうか、雪稜まで登るべくルート偵察に出る。後藤、ラマ、ノルブは元C1のデポ地点(4800メートル)へ逆ボッカ。広瀬、和田、ツェリンはC1にて休日。伴、岡本、プタール、パサンはBCにて双眼鏡で偵察隊の行動を追っていたところ、10時30分、事故が発生した。インゼル尾根取付より4ピッチ登ったルンゼ内で、西村ひとり(義本、片岡は既にルンゼを抜けていた)突然ブロック雪崩の襲撃を受け、それが約2分半続いた。
狭いルンゼのことゆえ避けることができず、左手でフィックスにユマールをセットしたまま右手で体をかばった西村は、右前腕骨折、両ヒザ打撲、左鎖骨痛という重傷を負った。すぐさまハンディトーキーにてC1と緊急連絡をとる。幸い西村が一人で歩ける状態だったので、義本、片岡とアンザイレンしてC1へ下降に移る。11時C1からビヴァークの用意をして、広瀬、和田、ツェリン、ラマが事故パーティの収容に出かけ、後藤はC1にて連絡のため待機。BCでは事故パーティにケガの様子を聴き、東ドクターより処置方法を指示した。
左の写真:インゼル尾根に続くルンゼ。心配された事故が、この中で発生する。ブロック雪崩によって西村隊員は右腕を骨折する。1963年イタリア隊の遭難もこの付近だ。
右の写真:インゼル尾根に出ると岩と雪のミックスした壁から快適な雪稜になる。
午後1時、救援隊と事故パーティが合流した。西村は案外元気でしっかりしており、意識も正常。4時半全員無事にC1へ帰着した。再度ドクターより薬品の投与および処置の指示をもらい、夜8時やっと緊張の一日が終わった。
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