ランタン・リルン登頂(3)

キャンプ3   ルート工作

      ↑C3建設                  ↑稜線直下のルート工作、頂上は近い
 10月15日、やっとの思いで第二キャンプ(C2,5700メートル)を設営した。雪崩、セラックの崩壊、日毎に大きくなるクレバスなどに悩まされるルートとC1の危険性を考えると、一刻も早く登頂を済ませたい。1961年第一次隊遭難現場である第二キャンプの雪原より上部は、遭難の原因となった大アイスブロック群に最大の注意を払って通過し、10月19日第三キャンプ(C3,6280メートル)、10月23日第四キャンプ(C4,6630メートル)を急ピッチで設営した。しかし、C3では片岡が高度障害のため意識が徐々に弱まって、アタックの前日というのに、一晩中広瀬と義本が介抱をして緊張が続く。明日は登頂と収容の同時進行となろう。
登頂
 10月24日、C2までは曇りだが、C3とC4は雲海の上で快晴となる。いよいよ17年ぶりに王手をかける日がやってきた。午前4時、BCではガスが濃くたちこめ、10月7日より17日間続いた早朝の快晴が今日に限ってとまり、ここしばらくリルン頂上にかかっていた夜明けの月も満天の星も、濃い闇の中に姿をかくしている。初登頂を許すのが恥ずかしいのだろうか。
 
↓最終キャンプからゴザインタン(シシャパンマ)を見る
 5時、C4のアタック隊との交信では、エベレスト方面に黒いレンズ雲がわいてきており、ひょっとすると天気が悪くなるかもわからないので、そうなれば無理をせず途中で引き返しますよ、と和田はいう。絶対に無理をしないよう答えておく。下部氷河のルートの危険、不安定さ、片岡の症状から考えても、また天候が悪くなって雪が降ればたちまちピンチを招く恐れ(表層雪崩)があることなどからすれば、正直なところ今日を逃せば永久にだめかも知れない。何としても登ってきてくれと言いたいところだが、口に出せず唯、心の中で念ずるのみである。
 アタック隊の和田、ツェリンの二名は6時C4を出発。一方C3よりC4へサポート隊として広瀬、ノルブが出発。C2へ下山予定の義本、片岡だが、片岡の呼吸数1分間32と多く、憂慮される。高度障害は決定的ゆえ、C2へおろすよう指示するが、全身の倦怠感はなはだしく、起きてもすぐ横になる。かたや登頂、かたや高山病による下山、というわけで、BCではトランシーバーをつけっぱなしにして連絡にあたる。
 7時、アタック隊はC4より上部300メートルのナイフリッジを通過し、白い斜面の下に到着。高度6800メートル。おそらくBCから見える肩のあたりと思われる。8ミリ撮影機は動くが、カメラは寒気のため凍って作動しない。8時20分、アタック隊は7000メートルに到着。南稜のピナクル、西稜末端のランタンU(ホビン)が下に見える。そこから頂上が見え、9時過ぎには頂上に着きそうだ。ザイルは不必要なようすなので、置いていく。
 9時、一方、義本と片岡は、やっと食事を終えて下山にかかる。片岡は靴、アイゼンの装着が一人で出来ず、頭痛もひどい。義本は苦心のすえ用意を整え、片岡をアンザイレンしておろし始める。
 上空は5000メートル位から上が雲におおわれ、南方ホンゲンドプケのあたりは晴れ、頭上もわずかクレバスの裂け目の如く青空がのぞいている。急にブーンという飛行機のうなりが層雲を通してきこえる。今まで4〜5回BCの上空へ飛んできたマウンテン・フライトに違いない。先日の快晴の時にはキムシュンの側壁をかすめ、C1のテント地にぶっかるかと思うほどの曲芸飛行を見せてくれた。我々への挨拶のつもりだったのだろう。

                    

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