メラピークへの道 

ネパールのクーンブ地域

佐々木 惣四郎、関 智弘

2005年9月30日−10月30日

 

< 趣旨 > 

  山岳会として中国 四光峰に遠征登山をして以来16年間、海外遠征らしきものはしていなかったが、久方ぶりに山岳部員が入り、かつ現役の関君がヒマラヤ登山に興味を有してくれたので、彼にヒマラヤ登山を経験させ、一段高みに導き、今後の部活動の活性化につなぐべく、今回の企画となった。

登山対象はメラピーク(6473M)にてクーンブ山群の南端にあるヒンクー谷の源流、メラヒマールの主峰。この登山後、カラパタール及びエベレストベースキャンプへのトレッキングを行いクーンブ地域の概略の理解と高度の体験をする。

 

<ハイキャンプ目指して>

 9月30日2800mのルクラについてシェルパ、コック、ポーター等11名と共にキャラヴァン開始し、チュタンガ(3100M)に設営。2日目でチェット・ラ4500mの峠超えて4100mのチュリ、リに設営。4日目、4150mのタングナにいたり、翌日裏山へ600mの高度順化をする。6日目カーレ4750mに至るが、絶えず霧で夜は雨と雪で写真は撮れず。

7日目メラ・ラBC、5150Mに入り、翌日高度順化でハイキャンプ5600mに関君と共に登る。翌日9日目ハイキャンプに入り、夕方素晴らしい眺望に出会う。マカルーが圧巻で、ローツエ、ヌプツエ、エヴェレストが望め、さらに東方にカンチェジュンガが見える素晴らしいハイキャンプである。今回夕方はほとんど雨か雪で景色がかなわず、始めての大パノラマに感動。

なお、驚いた事にハイキャンプまでキッチンテント、ポーター等8名が入り、ビックリ。また、先行パーテイ3−4隊は全て下り、我々のみの設営であった。

 

<ピーク目指して>

 10日目の10月9日、朝1時半起床、快晴に恵まれ、3時出発で約マイナス15度ぐらいで、約20CMの新雪でトレースの全くない中、軽くラッセルしながら順調に稼ぐ。6時前ぐらいにマカルー方面より真赤な圧倒的で、全く得もいわれぬ朝日に照らされる。気温はマイナス10度ぐらいに上昇。     

 しかし手袋、オーバー手袋にもかかわらず手先が凍りつき動かなくなる。シェルパが、カイロを用意してくれ、人心地つき登攀を続けた。最後を歩く関君が遅れ出し、鼻水が凍って6−7cmとなっている。

 あとで解った事であるが、関君は、準備の服装に問題があり、冷気の為、体力を大幅のダウンさせ、撤退が頭に浮かびながら、これまでの山登りでの執念、友人、家族、山仲間を思い浮かべ8時45分シェルパのサポートを得て佐々木と共に登頂。

最後の登りは20mのザラメ化した壁でユマールとピッケルのピックでの登攀。 頂上よりの景色は、マカルー、エベレスト、ヌプツエ、ローツエ、アマダブラム等、素晴らしく得難いものであった。

(写真 メラピーク頂上より関君の右手後ろマカルー)

  頂上での関君は、全身をブルブルと震わせながらも山仲間部員の寄せ書きの撮影、友人の遺品撮影をこなすが、立っているのが精一杯で、帰りには体力が持たない有り様。テッキリかついで降りようと思った。 しかし、20mのエイト環による懸垂下降をして、自力で10時30分アタックキャンプ5600mに帰着。約6時間の登攀であった。

 その後、彼の話を聞いても到底登頂できる状況ではなく、全て執念によるものであった。その代わり、頂上からの素晴らしい眺めはほとんど記憶にないということであった。彼にとっては、人生で忘れ得ぬヒトコマであり、小生にとっても3回目の6000m峰での息子の如きパートナーであった。

 

<15日間の登山活動を終えて>

  登頂後、カーレBCに帰り休息を取った後、同ルートでルクラに15日目に帰り、登山活動を終わった。 なおタングナにては、マオイストによる集金で一人当たり5000ルピー(約8000円)の支払いをさされた。銃も持たず2人で集金をし、領収書をくれた。

  また関君の高度順化状況は極めて良好で2日目の4000m越え、および7日目のメララ5150mで、頭痛に悩まされながらも耐え忍び、極めて好調にアタックに備えられた。

 今回の最大の反省点は、関君の上下ヤッケが意外に寒気に弱く、小生としても上下5万円の積雪期用を買わせるべきであった。当初は下着にてカバーする予定であったが、本人に寒気に対しての自覚が弱かった。

また佐々木は、喉の風邪に悩まされ、高所の登る程咳き込み、呼吸に支障をきたしたが頭痛はしなかった。しかし、5000M以上での登りにはかなりこたえた。

 

 

      メラ.ピーク(6473M)の頂を目指して 

関 智弘

 出発は午前3時だった。満点の星空の下、登山準備をハイキャンプ5600mにて行う。前日までの高度順化もほぼ完璧にでき、僕の体調はこの旅で最高に達していた。軽く登れそうだというのが、この時点での素直な気持ちだった。その油断は、僕の服装の甘さに出た。歩き出したら温まるだろうという考えでスタートは切られたのだ。

 マイナス15度の世界は想像を絶するものだった。冷気が体にしみ込んでいく。鼻水が凍る。足先や手の指先が痛む。あまりの寒さで息がうまくできない。こうして僕の体力は瞬く間に奪われてしまった。2時間ぐらい経って、空が少しずつ白み出す頃、自分の体力が尽きたことを悟った。

「もう無理です」と言おうとした。でも言えなかった。夜明けの光に照らされながら、ネパールへの出発の直前に亡くなった故人のことを思い出した。僕にアウトドアの楽しさを教えてくれた人だった。彼の遺品を遺族に頼まれて持ってきている。覚悟を決めた。とにかく頂上までは行こう。あとは、ままよだ。

 ここから先は、気力だけで登ったような気がする。気がするとしたのは、あまり覚えていないからだ。立ち止まるだけで全身が震える状態で、半分忘我していた。頂上からの景色もほとんど覚えていない。800mを約6時間かけて登ったようだった。

(写真 メラピーク頂上より左手エベレスト 右手ローツェ)

 でも、ハイキャンプに戻ってこれた時、よかったなあとしみじみ思った。生きて帰ってこれてうれしかったし、目的を達せられてうれしかった。 ただ、下りは荷物をシェルパに持ってもらったので、半分しか自力で登ったと言えない。次こそは、という思いになったのも事実だ。

  ご支援、ご声援ありがとうございました。

 

 

エヴェレスト街道 思いがけない道中記

佐々木惣四郎

   

<カラパタールへの道>

  メラピーク15日間の登山を終えてナムチェにいたり、エベレストビユーホテルからの景観を大いに楽しみ、観光気分で18日ナムチェを出立したが思いがけない事態が発生した。関君が風邪にかかったのである。この為、同日タンボチェで発熱し、19日午前ダウンしてストップ。明くる日20日も沈殿。

21日ようやく熱が下がったようであるが、ほとんど3日間絶食が続き、本人は全く進む気力を失う。喉が腫れて食べ物がとおらず、口の中が腫れて痛いとの事。なだめてデインボチェに半日行動し、22日ロブチェに行けるところまでと出発。

ここから山の景色が次々と展開する中、黙々と歩き4850mのロブチェにつく。途中、タボチェ、ツラチェ、プモリが強烈に迫ってくる。

 

<ロブチェよりカラパタール アタック>

23日5時起床。快晴マイナス5度ぐらいの中、6時出発し、ゴラクシェー5050mに8時半到達。

ここから目の前のカラパタールの丘に向かって9時スタートし、またまた行ける所までとジリジリ登る。ほとんど彼の胃の中はカラで、多くのツアー客に交じり、必死の登行が続く。3時間かけて約500m登りカラパタール5500mにつく。最後の登りは痛々しく、根性を見せ付けられた。メラピークでの根性と同一性のもので、どこから力が出てくるのか不思議であった。

(写真 カラパタールより左手後ろエベレスト、右手ヌプツェ)

  プモリの正面に位置する頂上からは、圧倒的なヌプツエー、エベレスト上部と下部のアイスフォールがたちはだかり、遠くはアマダブラム等々があり、絶景としかいいようがなかった。

  下りはゴラクシェーまで1時間45分で、大休憩して午後2時ロブジェに向かい、4時到着。実に10時間にわたる病身のなかの粘りであり、この粘りは彼の今後に大きく役立つであろうと考えさせられた1日であった。

 

<終わりに>

  その後、彼の風邪は、次第に良くなるも口の中の荒れは続き、食欲は半減したが食べられるようになり26日ナムチェバザールに帰着しました。この日は天気がすぐれずタンボチェからの朝の豪快な景色を望む事ができませんでした。計画としてゴーキョに行く予定でしたが割愛し、早めにルクラにもどった。

(写真 ティンポチェ手前よりのアマダブラム)

 またナムチェからターメに足を伸ばし、42年前にランタン.リルンでトップクライマーであったシェルパのミンマツエリンに会いにゆき、運良く会え、73歳でシャンとした彼の姿勢をみせられ感動を覚えた。

 

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