ネパール100日間の山旅(2)

大阪山の会(大阪府山岳連盟)の登山隊が8月末に着くまでの間、体調を整えるために日本料理店に通いづめる。これから入山する札幌のダウラギリ隊、マナスルの北西壁を目指す山野井・長尾夫妻、サイパルへ向かう野沢井君達らと食事を共にしたりして、カトマンズの休日を楽しむ。
いよいよ9月2日に陸路でスルケットに旅立つ。途中バイラワ(現在シッダルタナガール)で一泊して、釈迦の生誕地であるルンビニに立ち寄る。聖地では日本の仏教会が修復工事をしていた。スルケットは現国王の名前をとりビレンドラナガールという別名がついている。街は結構にぎやかで、バザールにも品物が沢山置いてあった。我々の行き先の西北ネパールは辺境の地で、アンナプルナ・ランタン・エベレスト街道のようなロッジやバッティ(茶店)などはほとんどなく、食糧・燃料などほとんどの物をカトマンズから用意せねばならなかった。隊荷は総重量4トンあまりにも及ぶ荷物であった。ネパールで作られたコシヒカリ(藤田米)180kg、ポーター用ネパール米だけで600kg、日本から持参した半生うどん60kgなどである。

突然のヘリ  村人がむらがる

突然、ヘリが飛び降りたので部落の人達が驚いた。  初めて見る外国人のパーテイに見物客が押し寄せる

9月5日、大型ヘリを2回飛ばしたが、隊員と隊荷を空輸するも、ポーター用ネパール米を少し積み残すこととなる。ヘリが下りたところはムグ・カルナリ河、ララ湖東のガムガディ上流のマングリと言う部落。前触れもなく突然に、収穫前の稗畑に下りたので、村の人達がおどろき、学校の校庭に設営したテントを囲んで中を覗き込む。1日荷物の整理に費やして、7日よりポーター123名を従えての大キャラバンに入る。

プラノムグ←ベースキャンプ

ムグより半日登った所のプラノムグ(3650)にベースキャンプを設営する。ここに約3週間もの間、滞在する。私達の任務は、ナムジャ・ラ峠の周辺から西のタンケコーラのネプカへ下る道の有無の調査、ムグコーラ周辺の谷の探索、後半の山旅に備えて全員の高度順応であった。

ここからナムジャ・ラ(峠)(4986)への道はチベットとの交易路で、我々が滞在している間、ヤクや馬の背に荷物を積ませて交易の旅をするチベットやネパールの人達が盛んに往き来する。何百頭もの山羊の群を見ていると人里離れた所とはとても思えなかった。


探索したのは、コジコーラ、コジチャウルコーラ、タンキャコーラなど。コジコーラは、昨年春に大阪山の会が入り無名峰を2座登頂している。コジチャウルとタンキャの谷は、まだ記録がないので、外国人としては我々が始めてではないだろうか。吉永総隊長は9月末には帰国しなければならないので、タンキャコーラの取り付きから中流部を探索されただけで下山された。ご本人が行きたかったネプカへの道は、後日われわれが通ることになった。

  外国人の入ったことのない谷

コジチャウルコーラの源流                      タンキャコーラに入った外国人の記録は無い

ベースキャンプに滞在中、モンスーンの明ける頃、北から南の空を飛来する「あねは鶴」が逆V字型の編隊を組んで飛んでいくのを見る。その昔P29の遠征の時、日本人として初めてツルの飛来するのを撮影された住吉ドクターは感激しておられた。またドクターは、ムグの人達が治療や薬を求めてベースキャンプを訪れる度に、彼らとの応対が大変であった。

チベット人のテント

ベースキャンプの近くでチベット人がテントを張って食事していた

          

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