ネパールの100日間の山旅(3)

10月1日に登山隊の一行が我々のベースキャンプに到着し、NHKの取材班もポーターを従えて到着する。女性隊員の作った久しぶりの日本食を食べて深夜まで歓談が続く。登山隊は、雪が付着した500米位の逆層の岩壁にはばまれて登攀を断念せざるを得なかったとのこと。先ずは全員の無事を祝う。
NHKの取材班は、ヒマラヤ登山にとってシェルパの働きがどんなものなのか。彼らは何故危険な仕事をやるのか。シエルパ気質とは何かを中心にして取材する。
ここプラノムグより次の部落であるネプカまでの無人地帯は、二つの隊に分かれて行動することとなる。A隊は、事前に探索したタンキャコーラからタンケコーラに向かう。B隊は、ナムジャ・ラ(峠)から国境稜線に沿って、カング・ラ(峠)(5395)を経てタンケコーラに入り、A隊と合流する。私はA隊、女房はB隊になった。

峠

5049の峠に到着する

10月4日、いよいよ後半の登山活動が始まる。お互い元気な姿での再会を約し、長期滞在したプラノムグに別れを告げる。タンキャコーラの源流を目指して道無き所を登る。谷の取り付きはゴルジュで、左岸を急登する。過去の踏跡が少し残っていた。森林限界を過ぎた辺りからはU字谷になり、明るい谷であった。踏跡もヤクの糞もなく、人気のない静かな谷を遡る。2日目には源流の最低鞍部に達し、そこには小さなテョルテンが寂しく立っていた。外国人として初めてのトレースだったが、現在は地元の人達にも忘れられた旧い峠である。過去には、二つの谷を結ぶ交流が僅かながらあったのであろう。峠(5049)には少し新雪が積もっていた。タンケコーラへの下りも一面雪化粧。

  桃源郷であった

タンケコーラの源流の山々、ここからネプカまでは人家はなし。

ネプカまでの長い下りは、一軒の人家もなく、夏に利用するカルカがあるだけで、一週間の間、人やヤクに出会うこともなく、まさに桃源郷を歩く思いだった。
今回の西北ネパールの山旅で一番楽しかったのは、この谷であった。女房はチベットとの国境稜線に沿って歩けたのが最高と申している。

タンケコーラの途中で、ゴラクヒマールのアブシ峰(6258)に入るチェンガールコーラを探索したりして、ネプカの部落に着いたのが10月14日であった。部落の中でテントを設営すると、登山隊を見るのが初めてなのか、ここでも大変な人だかり。夜遅くなってもテントの周りから離れてくれない。また、テレビカメラを見るのも初めてなので興味津々。人家は45軒、人口300人とか。ネパール政府は識字教育に熱心で、こんな山奥にも学校を作っていた。3人の教師に生徒25名。そして水道施設にも力をいれていて、この部落にも簡易水道が敷設されていた。

  ネプカの女性

   ネプカの手前に一軒の民家あり。       ネプカの女性は、鼻にリングをつけていた

ネプカで休養することもなく、後半の山、ドザムコーラの最奥にあるチャング・ラ峰(6563)にむけてタンケコーラからフムラ・カルナリ河沿いにキャラバンは続いた。途中でネプカのポーターが中心となってストライキが起こる。やはり西北ネパールには昔のままのネパールが残っていた。

             

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