2001年
夏のスイス
チナールロートホルン 4221m
小笹 孝
4500m 級の山が連なるヴァリスアルプスにあって、この山の名前はそれほどポピュラーなものでは無いかもしれません。しかし、マッターホルンからダンブランシュ、オーベルガーベルホルン、チナールロートホルンそしてヴァイスホルンへと続く山並みはゴルナーグラートやスネガ辺りからは指呼の間に見え、その東面が800m の壁となって尖峰から落ちこむ山容はヴォリューム感にはやや欠けますが、岩登り好きの目を惹きつけずにはおきません。
マッター谷左岸の山々には登山電車やロープウエイと言ったものが一切無く、否応無く谷から登り出さねばならないのも魅力の一つと言えましょう。
上堂兄の参加が無理となった時点で出発を少し早め、7月22日に発ちました。 前半のベルナーオーバーラントでは、佐々木兄は予定通りアイガー東山稜を快調に踏破されましたが、その夜、ホテル ヴェラーリの主、中島正晃さんのお招きを受けた席では相当にハイな気分とお見受けしました。
同じ日、私はシュレックホルンを目指しましたものの、その取付きにすら触れられないままに終わりました。 軽い痛みながらも膝を庇っての歩行はガイドの求める速度に従えず、どうしても登りたいかとの問いに、今日は膝の調子が悪く駄目となっても仕方が無い、と応えざるを得ませんでした。
山に向かう朝、自宅に入れた電話で怖れていたS岳兄の訃報を知りました。二人分登る思いを反芻しながら逸る気持ちで小屋ヘのアプローチを辿りましたが、その翌朝には実に情けない現実をさらけ出し、苦い思いの敗退でした。
8月5日 ロートホルン小屋に上がる朝となりました。 チナールロートホルンやオーベルガーベルホルンのベースとなる小屋までの高度差約1700mはイヤヤナーと感じる大きな数字です。しかし、前半はトリフト 谷の日本にも似た優しい景観に慰められながら本当にのんびり登れますし、後半はどんどん高度を稼げる急登ですから、シンドイなーと思う頃には、赤い岩尾根の末端壁直下に石造りの立派な小屋が直ぐ其処のように見てきます。それから暫くが我慢のときでしたが、所要時間は5時間でした。
いまより三つも若く快調だった98年が4時間45分でしたから、これなら明日も何とかなるだろうと、途端に気が楽になりました。
小屋はほぼ満員に近い状況で、前回とは大違いの登山者の多さに驚きましたが、昼飯を食べに来るだけのハイカーはやはり1700mがものを言って今回も少なく、ヘルンリ小屋やモンテローザ小屋のようにテラスで食事と言ったシステムは有りません。しかし看板娘とも言うべき「山の娘」の笑顔は素晴らしく、我々のガイドとなった31歳の独身 ディヴィッドが暇さえあればキッチンに居ることが、素直に理解できました。
そしてこの小屋にはネパールの青年が一人働いていました。小屋に近づいたときにタルチョウがはためいていたのも納得です。
夕食前の数時間を大方の人は食堂で弾む話を肴にワインやビールを飲みながら過ごすのですが、ガイドレスのグループも多く見うけられ、彼らはガイドブックを片手に熱心に明日のルートの研究に余念がありません。
一方、私達はルートどころか身の安全までもガイド任せのつもりですから何もすることが無く、持ち物検査を受けた後は周りの人々を観察することにも飽きてしまい、ガスって景色も楽しめずで、暇を持て余しておりました。
さて、ガイドが行う持ち物チェックですが、彼らの基本スタンスは、好天気の下で登るために必要なもの意外は全て小屋に置いて行け、に徹しているように見受けました。
8月6日 星が見えず、ベストの天気ではないようです。昨晩は8時にベッドに入り、半錠の睡眠薬を前もって飲んでおいたお蔭で直ぐに眠りに入りましたが12時に目覚め小用。その後はうつらうつらとしている内に周囲が起き出しました。怠惰な気分に負けて食堂に出たのが3時45分。15分の遅れがそのままずれ込んで、ディヴィッドと佐々木兄の間に繋がれて歩き出したのが4時15分でした。上堂兄と一緒に行った二つの山でもそうでしたが、遅れた者がミッテルに入れられるのがルールのようです。 わが国で言われている言葉に、早飯、早糞 武士の嗜みとか、腕の良い職人は仕事が速い、などが有りますが、スイスでも同じ考えで判断されることが判り、ガッカリ!
P3786が近くなる頃、遠くに見える山の端に沿って東の空を細長く金色に染めながら夜が明けてきましたが、4000mから上を雲がびっしり覆っています。遠目はそこそこに利きますが殆どの山の頂上付近が見えません。我々が高度を上げると、その内に全く視界が閉ざされ、折角の高度感や辺りの景色を楽しめず残念です。いよいよ岩場にかかって暫くすると雪がぱらつき出し、南西稜のガーベルのコルに出ると風も少しあり手がかじかみます。
東壁最上部の小広いバンドを伝って、最後のひと登りで踏みしめた頂上は大小の岩が重なった状態で、雪を殆ど被らず露出しており、風の強さが伺えます。そんなところに2mを悠に超えるキリストの磔像がニョッキリ建っている風景は、通常の十字架だけではないだけに何か奇異に感じました。
頂上では、厳しいディヴィッドも優しくなり、パチリパチリと撮影のサーヴィスです。彼はstaccato のときもtogether のときも、常にザイルを岩の間に巧くかませながら行動していますが、お互いの墜落方向をしっかり考慮しながらの正確な措置ですし、またビレーを確実に素早く取り、相方の墜落を確実にとめ得るように動作しています。当たり前と言えば当たり前ですけれど、真似をするのはなかなか大変です。我々はと言えば、ガイドは落ちないものと決め込んでの、不確実な確保やザイルの処置を屡犯すものですから即座に注意を促され、彼の指導者精神の発揮にも感心しておりました。
この日のチナールロートホルンは大入り満員の盛況で、P3912mからの雪稜が終わって岩場にかかる辺りからはザイルの列が長く続いていました。
しかし我々のガイド殿は順番を待つのではなく直ちに追越にかかりました。雪稜までは最後尾に近い10番目ぐらいでしたが、頂上に着いたのは3番目だったものですから、傍目にはかなり強引な追越しと見えたことでしょう。下降時には追い越す相手もなく、所要時間は往復9時間52分でした。
出発前にディヴィッドが厳かに宣言した、10時間が標準であるぞよ、遅れるな!!
何とか守れましたが、岩場の降りが終わった後の下降は膝の痛かーったこと。
実に無様なナサケナイ格好で歩いていたそうです。
一般ルート うろ覚えがき
・ 小屋から踏跡明瞭なガラ場を超え、ロートホルン氷河の西縁を赤い岩尾根に沿って北上する。クレヴァスは無かった。
・前記岩尾根側部の緩傾斜帯を超え一段上の雪面に出て左に斜上する。
・同岩尾根の上部を形成するガラ場を登り更に一段上の雪面に出る。
・ この雪面も左上するとミックス状の尾根に出て朝食場Fruhstucksplatzに至る。
・ この尾根をP3786に達すると左に曲がり、傾斜も落ち、やがて雪稜は細くなりP3912に達し、これより岩場となる。
・ 易しい壁を登り左にトラバースして、南西稜へ突き上げるランペへ。
・ ランペ底は先行者の落石の危険性が高く、左側を登りガーベルのコルへ。
・ コルより大きなブロックの重なりを初めは稜通しに行き、一旦左に回りこんで稜に出るとまた左から前衛峰Kanzelを超える。直ちに右に出て東壁上部を横断して再び稜上を頂上へ。
以上
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