引っ張り上げられてヴェッターホルン
小笹 孝
ヴェッターホルンは、標高こそ3,701mと4000m峰には遥かに届きませんが、グリンデルワルトの町から眺められる山々のなかで「たった一人の山」(浦松佐美太郎 著)の舞台として多くの日本人が親しく感じる山の一つです。その山容は,どっしりとして重厚でしかも均整の取れたものであり、鋭利な刃物のような東山稜を従えたアイガーと併せてグリンデルワルトの景観を代表するものと言えましょう。
ヴェッターホルン3701m クライネシャイデック付近より→
そのようなヴェッターホルンにいつか登りたいものとかねがね想っていました。
定年退職とともに再開した山登りですが、思い返せば2シーズン目が最も調子よく登れたように思います。ミッテルレギでは、固定ザイルを掴んで登れと言うWalterの指示を聞き流しながら登攀を楽しみ、下山してきたメンヒスヨッホの小屋で、彼がガイド手帳の一ページに日本の文字での書き込みを求めてくれたことは実に愉快な想い出です。
続いて訪れたガーベルホルンでは、雪の状態がスティッキーで悪く、風も強いから、と言うガイドの判断でヴェレンクッペから引き返す結果で終わりましたが、靴底がダンゴになる湿った雪には慣れていることだし、あと160mぐらい高くなっても、今吹いている風と大して変わるものではあるまいに、と随分と不足に思いながらも、ガイドが危険だと断ずればそれに従うしかなく、未練たらたら諦めたものでした。
しかしそれ以降は膝が段々と悪くなってきたようで、痛みを感じてくるにつれて無意識のうちに全身に力がはいり、強ばりっぱなしの筋肉がスタミナの消耗を加速させるような事が増えてきました。今夏あたりぼちぼち年貢の納め時かも知れんなー。来夏になればヴェッターホルンも怪しいぞー。自信を失ない、焦りと不安とが綯い交じった不安定な気持ちで、七年目の夏も独りで兎も角出掛けて行きました。
結果は実に不細工な仕儀で、ガイドに引っ張られた事ばかりが強く記憶に残っています。彼等が客を強引に引っ張って登って行く事があると話には聞いてはいましたが、それが自分の現実となった時は何とも嫌なものでした。若いガイド、ステファンにゴリゴリ引っ張られたのが口惜しく、癪でなりません。氷河を歩いていた時ではなくて、岩場になってから引っ張り始めたものですから尚更でした。
しかし、これもきっと彼流の親切心の表れだったのかも知れません。前日、夕景を楽しみながら食後の一刻をステファンと過ごした際に、一昨年のシュレックホルンに懲りて言わずもがなの事を言ってしまっていたからです。俺の歩く速度は早くはないが必ずついて行けるから、絶対に途中で引返すのは嫌だ! とガイド料惜しさの予防線を張った私に、真面目なセミベジタリアンが忠実に応えてくれた結果なのでしょう。
絶対に頂上まで連れて行くから動けヨ! 三日もかかって登るのとチャウ! 一日しかないんヤ! と言いながら遮二無二引っ張ります。そんなことをされると反って登り難いものですから、引っ張るな! と怒鳴れば、早く登れ! と頭の上から返ってくる始末。
疲れてくると上方を振り仰ぐ動作を殆どしなくなり、ただじっと下を向いて右左と両手両足を動かしている状態でした。そうすると手を使わなくても済むような傾斜になってもヨツンバイ状態の儘に不思議となってしまっているものです。すると今度は、手を挙げろ! 脚だけで登れ! と、実に細部にわたる叱咤激励が飛び込んできますから、思わず以前に出遭った光景を思い出して苦笑していました。それは、同じく2年目に初めてのメンヒから雪稜を独り下ってきた直後に出合った情景ですが、時差ボケの影響もあってか若者が容易な岩稜で随分とヨツンバイ状態でした。その若者のガイドが、同じ日本人の私を見てにやりと笑うのが、己のヤスっぽい優越心を刺激して慌てたことでした。
クレペリン検査のカーブでは有りませんが、頂上も近くなってきて先行パーティーが下りてくるのに出会うと、不思議に身体が軽くなり最後のガンバリが出てくるものですから私も性格は普通の範疇なのでしょう。ステファンは引張り疲れが出て来たのか牽引力が弱まって随分と登り易くなりました。
2003年7月19日9時00分。 頂上に立つ気分は格別で、引っ張られた事も忘れます。
ヴェッターホルンが大きな影を目の下、グリンデルワルトの翠に落とていました。風の冷たさに慌ててヤッケを着込みながらベルニーズの遠く近くを目に焼き付けました。最も目立って見えたのがシュレックホルンだったのはチョット癪でしたが、ほぼ同高度のミッテルレギを頂上まで辿りながらじっと見ていると、嬉しさのなかに寂しさがチョッピリ紛れ込んで消えてゆきました。
アイガー。左はヴェッターザッテルより。右はヴェッターホルン頂上より。
☆メモ
・ 標高差 バス停〜グレックシュタイン小屋 870m(2317−1450=867)
グレックシュタイン小屋〜頂上 1380m(3701−2317=1384)
・かなりの標高差が有るため、朝食開始時刻は3時。
・ 「ベルナー・オーバーラント」(監修ガストン・レビュファ ハンス・グロッセン著 近藤 等訳)に依れば南西面一般ル ートの所要時間は、良いコンディションで登り5時間、下降4時間となっています。
・ 今夏のヨーロッパ、6月から熱波が襲い、暑く、水不足の夏。山も残雪が極端に少ないうえに雪線が高く、町で雨が降った後もアイガー頂上付近が白くなっていない事が何回も。岩の部分が長いヴェッターホルンの場合は絶好のコン ディションであった筈です。
・ガイド料 SFr 990/一人 二人の場合は左記の約2割増し。
2食付き小屋代を含み、ガイド事務所に前払いする事がツエルマットとは異なります。
・ ルートの詳細は残念ながら記憶に残っていません。大雑把な印象を記します。
・ 小屋から暫くの間はハイキング道があり、ついで明瞭な踏み跡を辿り、(朝は暗くて判然としなかったが下山時に判ったこと。)かなり明るくなってクリンネン氷河に出ました。
・この氷河はクレバスも殆ど無く、日本の山の雪渓のような感じでした。
・ 右上して、氷河に長く延びてきている側稜に取り付きました。そしてほぼリッジを北東方向に直上しては浅いガリーを隔てた右側の稜へと二回程乗り移って暫くするとヴェッターザッテルに出ました。
・ 何れも稜は堅岩部が少なくて、脆くかつ浮き石が多いが、傾斜がそれ程無いため容易。
・ ザッテルから頂上へは急な雪壁経由で直接行けると見えたましたが、我々は雪壁左端の岩場にルートを取り、北西方向に登って頂上の左肩に出ました。
・ 下降ルートは登りと全く同じで、全てクライミングダウンでしたが、側稜で一カ所4m程をトップロープで降ろして貰い ました。
余談
・ ザッテルから上部の岩場には、確保支点の鉄棒が要所要所に何カ所か有りましたが、ザッテルから下部の側稜部では一本しか気が付きませんでした。
・ 下山時、ザッテルから下部で、一本右隣の稜を登ってくる後発組に出会いました。
・ これらの事からザッテル迄の側稜部でルートの自由度は大きいようです。
・ 暗いうちに歩く部分の見当を前日につけておけば、我々クラスでも仲間内でガイドレス登山を楽しめると思います。
・今回の所要時間 登り5時間30分 頂上滞在10分 下り3時間20分
(ステファンがヤイノやいの言うほど遅くは無かったと思ってますねんや。)
ヴェッタザッテルよりシュレックホルン
頂上の眺望 シュレックホルン
頂上の眺望 北東方向
頂上の眺望 北西方向
フィルストからブスアルプまでのハイキングコースが見える
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