アイガー雑感
山田 裕敏
アイガー・ミテルレギ小屋よりアイガーを仰ぐ。右斜面が北壁。
登攀前日で緊張している。右の男性はガイド。
数年前、マッターホルンを登ったあと、次は東山稜からのアイガーだと心に決めていた。
けれども具体的にそれがアイガーを構成する山稜のうちのどの部分なのか、また下からはどう見えるのか等は頭に無く、ただ槙さんが初踏破した稜線であって、難度の高い古典的ルートというイメージだけしか持ち合わせていなかった。
グリンデルワルト(以下GW)のテント場に着いて先輩連から、あれが東山稜だと指差されて初めて"ああ、あの北壁の左端のスカイラインを作っている尾根なのだ"と認識するような始末だった。槙さんが「山行」に「村の山といってもよいアイガーの、それも村の上に全線を示している東山稜が… 」 と記されているようにGWのどこからでもこの山稜は目に入り、これほど魅力的で村から指呼の間にある山稜が1921年まで未踏であったのはほとんど偶然だったのではと思うほどである。死者も出ていたし、その頃の登山技術ではそれだけ手ごわかったのだろう。
登攀日前日、足慣らしに訪れたグロスシャイデックからは正面寄りの位置で眺める事となり、頂上直前はとりわけ急峻で垂直に近いイメージとなる。去年の佐々木惣四郎さんの記録にあった、かなり厳しそうな表現が思い出される。岩登りのトレーニングなどこの所やったことも無く来てしまったので、「どうかな」と緊張感が走る。
7月30日14時、組合事務所にて同行ガイド、"レジー "と合流。シャモニに定住するフランス人で組合間の提携関係からGWに出向いてきた由。ドイツ語はできず聞きやすい英語をしゃべる。山歴は相当あるが東山稜は初めてだという。
16時ごろアイスメーヤ駅で下車しトンネルを少し下る。凍結しておりアイゼンがほしいほど。外へ出て上り気味のトラバースが始まる。登路自体はそれほどの傾斜でもないのだが、右側が大きく切れ落ちており、体も馴れておらず余り気持ちのいいルートではない。15m程の岩登り個所のみザイルをつける。1時間半くらいで小屋に着く。目の前にミッテルレギー = 東山稜が大きく聳えている。
小雨模様で下界は見えない。レジーは外の廊下で衣類の着替えをしている間も小屋番の小母さんと激しくフランス語で喋っている。何か問題がありそうで、明朝のことは何も言うなとまだ聞いてもいないことに釘をさされる。中へ入る。イギリス人ガイドと2人の若者。ガイドなしのイギリス人中年者3名(内一人は美形の女性)、スペイン人青年2人、それに我々と小母ちゃん計11名。こじんまりした新しい小屋でテーブルを囲んで話が弾む。当然天気模様と明日の予定となるが、英人ガイドが同国人に盛んに何かをまくし立てている。スコットランド訛りが強く聞き取りにくいが、上部ルートと下降部がこの雨で相当困難な状態となる、と身振り手振りを交えての説明だ。スペイン人達はレジーからスペイン語の解説を受けている。食事となりレジーがホスト役を務める。スイスの山小屋での数回の経験から見て一番のご馳走だった。こってりしたスープ、大盛りのサラダ、スパゲッティにデザート。
小屋は築後1年で、小母ちゃんに因ればユーコー・マキの寄付により建った初代の小屋はアイガー・グレッチャー駅の近くに部分保存されているという。丁度80周年記念で建て替えたのだろう。槙さんと3人のガイドの初踏破記念写真を銅版化したPanelが飾られている。ユーコーの影響でこの小屋へは日本人がよく来るとの事である。20名ほどが収容でき、細かいところまで設備の充実した家族的雰囲気をもった小屋だ。
翌朝3時半に全員起床するが雨模様なので食事もとらずベッドに戻る。これまでの4日間の晴天を逃がしてしまい残念だとの思いが胸を過ぎる。4時半に再度起きると雲の切れめに月が覗く。なぜか我々2人だけで朝食を採り5時半に出発する。
風はあるが視界は良好。暫くしてアイゼンをつける。緩急入り乱れたリッジを急ぎ足で登り切りグロッサー・ツルムに立つ。此処からは朝日を受けたミッテルレギー最後の登りが詳しく見渡せる。かなりの傾斜の岩場だがフィックス・ザイルも見えるし何とかなりそう。調子はどうだと盛んに聞くので、今のところ楽しんでいる、と答える。右下にはGWの牧草地が広がり、登山電車の軌道が見えるし、左側はフィンスターアールホルン、シュレックホルン、ヴェッターホルン等ベルナーオーバーランドの山々が連なる見事な360度の展望を楽しむ。
後ろからは結局誰も来ない。少し下ってからアイゼンをはずす。当初の不安感も消え、気力充実し最後の登りに向かう。先行きの天候を心配してレジーが先を急がせるものだから、折角の核心部もクライミングを楽しむというよりは、フィックスにつかまったごぼう抜きスタイルで追いかける。むやみに腕が疲れる。10時半ごろ頂上に着き殆ど休まず下降に転じる。アップザイレン数回で最下部に届きここからメンヒの鞍部まで長い山稜を上り下りする。この辺りから曇りとなる。
最後のメンヒ斜面のトラバースではガスがかかりレジーは地図と磁石を何度も取り出しルートを確認している。この雪のルートでは思わぬ落ち込みも発生するので、岩場に比べて極端に慎重な動き方をしていた。腕に頼った登りで相当エネルギーを使ったためか、勿論高度の影響もあって全身の倦怠感が強く15時にメンヒ小屋横のコルに辿り着くまで実に苦しい歩行を続ける。小屋から駅までの30分間は激しい降雪で、数日前に通った折の銀座通りの華やかさは嘘のようだった。終わってみれば、激しい登りの部分で充分に楽しみ、その分後半で苦しんだボリュームのある一日だった。スイス・アルプスの魅力はこの手軽なアップローチと骨の折れるルート、それにスタッフの揃っているガイド組合の存在が織り成す物だと思う。それに加え要所要所に在る快適な小屋と。
帰日してから改めて槙さんの「私の山旅」1968年岩波新書を読んで昔を振り返ってみた。その中で感心したのは、大正末年(1926年)の秩父宮殿下の山歴である。先に書いたベルナーオーバーランドの3山はもとより、マッターホルン(スイス側からイタリア側へ)、チナルトルートホルン、モンテローザ、リスカム等をひと夏でこなしている。これらの山は小生が経験し、或いはこれから登ろうかという対象ばかりではないか。山の宮様と呼ばれていたのは知っているが、ここまでやっていたとは知らなかった。往時の皇族をも含めた若き超Elite達の自由奔放なExpedition精神に思いを馳せる。こういうことは30数年前に読んだはずだが全く記憶に残っていない。その折にはSwiss Alpsに自分が将来出かけるとは思っていなかったからで、読み流していたわけだ。今後は、経験した事を本で確認する喜びと、新しく読み聞きする面白い事の体験に外へ出る楽しみを、今までよりももっと強く意識して続けてゆきたい。
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