ブータン紀行

広谷光一郎

6月15日バンコク空港で、橋本信行氏と合流、いよいよブータンに入ることとなった。橋本氏とは昨年夏、オーストリア、ウイーンで逢って以来のことである。
今回のブータン行きは、私にとっては昨年来の宿願であった。何故なら、昨年JACの仲間と計画し、直前、S字結腸癌手術のため、私のみ参加できなかったからである。このようなことで、今年は我々のグループ4名(1998年ポカラトレック、1999年フンザ・カラコルム、2000年カシュガル・クンジュラグ・パスなどに同行した仲間)の他、歯科医グループ5名が加わった計画となり、男性4名、女性6名のニギニギしい旅となった。

バンコクよりカルカッタ経由で、ブータンの玄関パロに。シャキムよりブータンに入る機中より、モンスーンの雲海中にチョモラリ(7,314b)の美しい山容を見ることができた。
パロより専用車にて約2時間、首都デインプーへ。デインプー(2,200b)は首都とはいえ、人口約4万人(ブータン人口60万人)、街のたたずまいは、ネパールでもなく、チベットでもない。
何故だろう。
ブータンは30年前までは自動車の通れる道路がなく、町といえる町がまったくなかった。
つまり、デインプーは人が集まるから町ができたのではなく、町作りをして、人を集めたというのが実情らしい。
従って、カトマンズやラサのような自然さがないのであろう。宿に着いたら懐かしい小方全弘氏の置手紙があった。「貴兄の到着を待ったが、下痢で体調悪く、常宿のイージン、ゲストハウスへ戻ります。都合付けば連絡下されたし」であった。

ここで小方氏について触れておこう。
彼は私と全く同年輩である。同志社山岳部のOBで、私と親しくなったのは彼がJACの理事として槇有恆氏の秘書役をしていた頃である。以来、理事会で関西の大学の海外登山について議論したものである。しかし、数年後、彼は突然我々の前から姿を消したのである。
何が彼をそうさせたかは定かではなかったが、1968年、彼は政府高官に招かれ、ブータンに入国、その後、現国王の戴冠式も含め十数度にわたって入国、ブータンの人々との親善的役割を果したのであった。(丁度、コロンボ計画で1964年着任した西岡京治氏と前後している)
そして、6年前、1996年よりデンプーから75kmの地点にあるブナカに居住するようになり、ブータン大蔵省の相談役をかっているのである。夜、彼の招きでイージン・ゲストハウスに行き、夕食を共にし、35年の空白を埋めたのであった。翌17日、デインプーからプナカ、そしてトンサへ210km6時間のツアーである。
途中ドチュ・ラ(3,200b)ではブータンの最高峰ガンカ・プンスム(7,541b)の眺望が期待されたが霧のため見ることはできなかった。峠の茶屋には京大のマサ・コン(7,194b)登頂記念の双眼鏡が設置されていた。

私は小方氏のパジェロに乗り換え、シャクナゲや古木の美しい原生林につくられた道路を徐々に高度を下げながら、やがて棚田が広がるプナカ(1,350b)に到着、彼の口利きでプナカ・ゾンに入ることができた。
プナカ・ゾンは幾度も災害(火災、地震、水害など)を受け、改築が繰り返されてきたゾン(城塞)で、ゾン最奥部には大きな講堂があり、本尊の仏陀が安置されていた。このゾンにはシャブドウン(17世紀の頃の高僧でブータンを統一、各地の要所に戦略的、政策的拠点としてゾンを作った。また、ブータンではこの僧の転生仏を最高権威としている)が、チベットから持ってきたという観音菩薩の像があり、これはブータン人はもとよりチベット世界全体に重要な存在と見なされている。
プナカ・ゾンからパジェロで約15分の高台に小方氏の家はあった。立派な3階建て、1階はプナカ・ゾンのNo2の高僧家族が住んでおり、彼はお手伝いさんと2階を居住としていた。
私たちは、しばしばビールを片手に、旧交を暖め、別れを惜しんだのであった。

無数のダルシン(タルチョのこと)の立てられたペレ・ラ(3,350b)を越え、トンサに近づいたことがわかったのは、深い渓流を挾んで、見事にそびえ立つトンサ・ゾンが見えた時である。このゾンはブータン以東から入ってくる人々の入り口に控える堅固な関所であり、同時にこの地域の行政府であったのである。
しかし、この谷の向こうへ行くためには30分も迂回しなければならなかった。行程のほとんどが小さな村を縫うように走ってきたのだが、この辺りからブータンの田舎の暮らしがおのずとみえてきた。
山腹にへばりつくようにポツン、ポツンと建っている民家は規模が大きく立派である。特徴としては、石積みなどの土台部分の1階は家畜小屋や物置に、木枠組の木造部分の2階は居室で、多くは2〜3階建てで、屋根裏をもうけているようである。木造部分は最も特徴があり、内外ともに細かい装飾や着色が行われていて、非常に華やかである。

ブムタンではオーナーの名前で呼ばれているレキワンモロツジに2日間の宿泊となった。夜は真赤に焼いた石を入れて湯を沸かすという石風呂を貰い、久方振りの寛いだ一時をもつことができた。
6月19日、ニマルン僧院のお祭りを見るためのハイキングが企画された。ロッジから1時間、道路から10分程川面に向かいチュメ・チュ(川)にかかった吊り橋を渡り、急な山道を25分程登った山の中にニマルン僧院があった。1900年にチベットから招かれた活仏、ドーリン・トウルクが開設したと言われている。この日の祭りはツェチュ(グルの祭り)ではなくチャム(仮面舞踊)である。近隣の村々から大勢の村民が祭りを楽しみにやってくる。
内容は諸尊が踊り手に降臨し、その力で悪霊を鎮めるというセリフのない舞踏劇である。
チャムの合間にはキラ(女性の民族衣装)で盛装した村の乙女たちによる歌や踊りが催される。そのほか「アツアラ」と呼ばれる道化達がパントマイム風に観客を笑わせるが、ペニスの撥と太鼓で若い女の子を追い回したりして、観客と舞台を結ぶ役目をする。私たちは始めて見るチャムにシャッターを夢中で切ったのであった。

6月20日、この日は当所から企画していたクジュラカン(僧院)でのグル・リンポチュの祭り「ツェチュ」を見学してワンデコルポダンへもと来た道を戻るのである。ここで、ブータンの仏教について解説してみよう。
結論から言うと、大乗仏教を国教としている。その伝来は日本より一世紀遅く7世紀前半の頃とされている。ブータンの1年間の祝日のうち、建国、新年、春分・・・などといった暦関係のものに比べて釈迦の誕生、成道、出家といった仏教関係のものが非常に多く、この祝祭日の中で特異なのがグル・リンポチェのツェチュ祭りで、全国同じ日ではなく、各県ごとに日が異なり、しかもこのツェチュ祭りが最も盛大なのである。
グル・リンポチェの生涯は、不明な部分が少なくないが伝えられるところによれば、パキスタンのスワット地方の北西にあるダナコーシャ湖の蓮の花から8才の子供の姿で生まれたとある。国王の養子として迎えられて成長してからは国政まで委ねられているが、結局はインドに赴いて出家する。そこで、多くの師のもとで顕教、密教の修行に励み高僧となる。(仏陀とよく似た運命である)。8世紀後半、チベットに赴いた師は、土着の鬼神を調伏してチベットに仏教伝播の礎を築く。
そして、チベットに限らず、ブータン・ネパールを含むヒマヤラ地域一帯に密教系の仏教を流布するのに大きく貢献したのである。
チベット・ブータンの仏教では、釈迦の生涯に起った誕生、出家、成道、涅槃という12の重要な出来事を追うことによって描かれているが、同様にグル・リンポチュの生涯も12の出来事に要約される。
しかし、釈迦と本質的に趣を異にするのは釈迦が涅槃という形で生涯を終えるのに対して、グル・リンポチェにはそれがないのである。つまり、グル・リンポチュは密教を広め、現在も師はそこに座すというのである。すなわち、この世を去るにあたって「月の十日に法要を勤める人のいるところには必ず戻ってくる」という言葉を残したので、信者にとってはグル・リンポチェは遠い存在ではなく、身近な感じで接しられるのである。

以上のようなことから、「ツェチュ」は毎月の法要であり、各地で特定の月と日を定め、休日となし、盛大に行われるのである。目を見張るような500畳はあろうかと思うトンドル(グル・リンポチェを主尊に刺繍で描かれたシルクの大掛物)が開帳されていて、広場には2〜300名の僧が鎮座し、高僧の読経と打楽器による荘厳な法要が行なわれている。
法要が営まれるうちに人々はトンドル(大掛物)の前に進み、その裾を額にいただいて、グル・リンポチュの加護を、そして家族の無病息災を祈願するのである。伝によれば、この祈願により、生まれてから今月までの悪しき事全てが許されるとのこと、本日古希を迎えた私にとってはこの上なき祈願となった。(巷に、グル・リンポチェの誕生日は6月20日である)
お祭り後、夕方、ウオンデイフォダンの川添いにあるリゾートホテルに到着、夕食会は私の祝古希、誕生祝いを盛大にしていただき、この上なき幸を感じたのである。翌6月21日専用車でもと来た道をパロに戻り、22日バンコクで橋本氏と別れ、この旅は終わった。
念願のブータン旅行では期待していたヒマラヤの山々は見ることはできなかったが、物乞いしない子供達、民族衣装でオシャレな人々、素朴な村々、信心深い人々と多くのゾンや僧院。
何といっても素朴な風情は私が忘れていたものを思い起こさせてくれたようである。
 橋本兄よ、来春はランタン・リルンに行こう!

          

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