四川省・最高峰ミニヤコンガ展望〜ハイローゴー氷河とゆったり温泉の旅」
文:奥田 寛
写真:橋本信行
ミニヤコンガ(7556m)は、ご存知の方も多いと思いますが、1982年の春、遭難した松田宏也氏(市川山岳会)が奇跡の生還をした山です。
昨年12月中旬の夜、突然、広谷先輩から自宅へ電話があり、「3月のツアーに行くので、松田氏と同じ会社の君はぜひ行くべきだ」というような勧誘をうけました。「3月?!」と思ったものの、ついその気になって参加することになった次第です。
今回入るハイローゴー氷河(全長14.7km、面積16平方キロ。アジアで最も規模が大きく、標高が低い)は、市川山岳会がはじめて登山使用したルートでしたが、今は森林公園として宿泊施設も整い、ロープウエイ利用でミニヤコンガを労せずして真正面に眺められる有り様です。更に温泉付きとは、なんともお気楽な旅先になったものだ、と感心したものです。
3号野営地から見た6368m峰(地元では金山銀山と呼ぶ)
<注>ミニヤコンガ登山小史
1932年10月 米国隊、北西稜から初登頂
1957年 6月 中国隊、北西稜から第2登
1981年 5月 北海道岳連隊、ヤンズーゴー氷河より北東稜経由で頂上を目指す
が事故のため登山中止。
1982年 4月 市川山岳会隊、ハイローゴー氷河より北東稜経由で頂上を目指すが
頂上直下でアタック隊が消息を絶つ。アタック隊2名は独力で下降
したが5月19日、松田隊員のみ現地人に救出される(奇跡の生還)。
1982年 スイス隊、アメリカ隊いずれも北西稜から登頂(第3登、第4登)
1984年 西ドイツ隊、北西稜から第5登
1990年 5月 北海道岳連隊、北西稜から頂上を目指すも6500mで敗退。
1991年 9月 日本ヒマラヤ協会隊、ハイローゴー氷河より北東稜を目指すが6400mで敗退。
1994年10月 日本ヒマラヤ協会隊、北東稜から頂上を目指すが4名消息を絶つ。
1997年 5月 札幌山岳会隊、ヤンズーゴー氷河より北西稜から日本人初登頂。
1998年11月 韓国隊、ハイローゴー氷河経由でついに北東稜から登頂(第7登)
(登頂後、下山中に1名墜落死)
<旅の概要>
企画:ヒマラヤ観光開発(株)
期間:2005年3月15日(火)〜20日(日)
参加者:広谷光一郎、橋本信行、北濃祥ニ、奥田 寛
石過氏(広谷先輩の理学部後輩)、高木氏(一般参加)
3月15日(火)
成田空港 8:55 → (北京 経由)→ 15:35 成都空港
定員(10人)割れのため、日本からの添乗員はつかないが、幸いなことに北濃先輩が参加されておられるので、何の不安もない。乗り込んだ中国国際航空は座席が狭いが、飛行時間は長くないので助かる。機内の飲み物でビールを注文したところ、冷やし過ぎで凍っていた(北京から成都への便も同じ)。それはともかく、北京での待ち時間も短く順調に成都へ向かった。成都空港に近づくにつれ、下界は見渡す限り見事な黄色い畑が広がる。菜の花畑であった。
成都空港で現地ガイドのPan氏の出迎えを受け、専用車で一路「花園城大飯店」へ。
車中でPan氏より「必ずしもミニヤコンガが見えるとは限らず、天気次第」、とダメを出されてしまった。夕食はホテル近くのレストランで。四川料理は案外辛すぎず、口に馴染んだ。
3月16日(水)
花園城大飯店8:30→ 16:30二郎山トンネル → 第三号営地(2940m)
今日は、ハイローゴー森林公園・第三号営地まで、南西300kmの距離を川蔵公路を通って、車で一気に走り切る過酷な1日となった。当初は高速道路を快調に走っているかに思えた専用車が急に不調となり、何とか高速道路を降りきって、雅安市郊外の整備工場に立ち寄る。結局、この車での続行を断念することになり、雅安市で昼食を摂りながら代用車が成都から来るのを待つことになった。
14:30 ようやく代用車で出発となる。今回の車は韓国・現代の車で2年前購入とかで、快調に飛ばす。雅安市に続く天全は木工品が特産で、木の彫刻が道路際に並び、見事であった。遅れもあって車は先行車をどんどん追い越してビュンビュン飛ばす。
大工事の末に開通した二郎山トンネルをようやく抜け、チベットに行く道と分かれて、大渡河(長江の支流)に沿った道を磨西へ。磨西からは森林公園の車(到着が遅れて、乗合シャトルバスは運行せず)に乗り換える。この車も日暮れないうちに、と九十九折りの坂道をものともせずビュンビュン飛ばす。何とか日が沈まないうちに本日のホテル
「銀山大飯店」に到着できた(感じとしては、上高地の西糸屋か)。さすがに、寒い。
4号野営地(ロープウェイ終着駅)より見たミニヤコンガ(7556m)
3月17日(木)
9:00〜12:00 城門洞氷川(氷河の末端)へハイキング
12:30〜13:15 昼食
13:45〜16:00 「旧展望台」へハイキング(有志のみ)
天候が良くないので、日程変更して氷河末端へのハイキングとなる。途上に、「松田宏也
小道」なる掲示板があり、来た証しにと記念撮影する。今回の参加者は氷河を知っているし、ガスっていることもあって、氷河末端から早々に引き上げて帰途についた。
午後は、Pan氏の案内で有志が「旧展望台」へ。結局、最後までついて行ったのは高木氏と私のみ。「旧展望台」には小屋があり、若夫婦が住んでいた。小屋には薬草等の漢方薬の材料が置いてあった。帰途、内モンゴルから来た犬連れの若夫婦に出会った。約6カ月、各地をトレッキングしているとか。夕食は、すぐ下にある「金山飯店」で摂る。あいにくの小雨となり、明日のミニヤコンガ展望ができるのかどうか、非常に気遣う。
市川山岳会の松田さんが19日ぶりに救出された場所。この道が松田小道と名づけられている。
3月18日(金)
9:00出発 →(乗合シャトルバス)→ (ロープウエイ) → 氷河展望台 着
氷河展望台11:10→ 第三号営地(昼食12:15〜13:00)13:00 → 13:30 第二号営地
昨夜の雨が雪となり、周囲が雪景色に一変していた。6時30分のモーニング・コールののち外に出たところ、ガスが見る見るうちに上がり、白く輝くミニヤコンガの衛星峰(金銀山、三連峰)が眼前に現れてきた。待望の晴天となり、期待に胸がふくらむ。
9時に乗合シャトルバスに乗り込んだところ、昨夜「金山飯店」で隣のテーブルにて食事をしていた若い女性中心のグループが乗っていた(広東から来た職場旅行組とのこと。 北濃先輩の入手情報)。ロープウエイで氷河を渡り、氷河展望台へ(約3650m)。
氷河展望台からは、主峰ミニヤコンガの雄姿を正面にして、360度の大パノラマが広がって申し分なし。少しは雲がかからないと絵にならない、等贅沢な声があがるほどである。<注>金銀山はスイス隊が1981年に登頂していた(帰国後判明)。十分に眺望を堪能して帰途につく。今日の昼食は殊のほかゆったりとしたものになった。
ゆっくりし過ぎてバスを待たせた形になり、慌ててレストランを出てバスに乗り込む。
本日は温泉の湧く第二号営地で泊まるだけ。例の広東の職場旅行組も同じ予定であった。
ここ「氷川温泉」は中国10大温泉の1つで、源泉は92度に達しているとのこと。
宿泊所の対岸に温度の違った湯船がある。吊り橋を渡り、日本の銭湯のように「番台」で着替えのロッカー・キーをもらう。水着に穿き替えて、違った温度の湯を楽しんだ。
これで今回の旅2つの目的達成となった。満足。
ミニヤコンガを背景に記念撮影(ロープワイ終着駅にて)
麓には氷河温泉もあります
3月19日(土)
第二号営地 8:00 → 8:40磨石9:00 →10:00 二郎山トンネル
出口 → 11:25 天全(昼食)12:15 → 14:55成都「花園城大飯店」
乗合シャトルバスに乗り、磨石へ。ここで出迎えの専用車に乗り替え、一路成都へ向かう。
二郎山トンネルに入る手前で振り返ると、ミニヤコンガの白銀の山容を望むことができた。トンネルを抜けると、天候が一変し、霧雨が降っていた。下るにつれて、さすがに小雨は断続的となり、止んだりもしたが、成都までどんよりとした天気が続いた。
成都最後の夕食は、15日の時点で広谷先輩ご推奨の薬膳料理店(=「欽善斉」)に変更されていたが、確かに酒も料理も期待にたがわず美味であった(当初は麻婆豆腐料理店)。
3月20日(日)
花園城大飯店 11:30 → 成都空港 13:40 → 21:00 成田空港着
11時まで各自自由行動(市内散策、名所旧跡の訪問、買い物、囲碁)。多少のトラブルはあったものの、往路と同じ北京経由で全員無事予定通り帰国できた。お疲れ様でした。
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