楼蘭故城を訪ねて
中嶋信正
楼蘭故城の仏塔跡
はじめに
Retire後のボケ防止に役立てばと、3年程前から「NHK文化センター」の「シルクロード」を聴講している。毎年2回程、講師の大阪教育大学教授の休暇を利用して、講義に関連するシルクロードの各地へのツアーが計画されている。この度、夏季は極暑の為困難な、砂漠の真っ只中に残る「楼蘭故城」を訪ねるツアーが催されたので、シルクロードに興味を持って以来、自分の足で立てるとは思ってもいなかった所だけに、体力的にも最後のチャンスと考え参加した。
楼蘭について
楼蘭は中国・新疆ウイグル自治区のタクラマカン砂漠東端、さまよえる湖「ロプノール」の湖岸に2000年程前、シルクロードの重要拠点として「匈奴」・「漢」の間に位置して栄え、又その為に困難な政策を強いられたオアシス王国であったが、湖水の枯渇や「漢」の圧力による弱体化、更には天山山脈麓の新しいルートが開けた事とも重なってその位置付けを急速に失い,?善国となってその首都も変わり、6〜7世紀頃まで存在していたが、やがて廃墟と化し、歴史から消えてしまった。
その後、19〜20世紀に懸けてスタインやヘディン、更には日本の大谷探検隊等が行った中央アジア探検に際して遺跡が調査され、その存在に光が当てられた。更に近年、中国の地下核実験場としてロプノール近辺が利用され、軍事機密が絡んで楼蘭へ近づく事も厳しく制限されていた。
又最近、付近の古墳から彩色壁画や彩色木棺が発見され、描かれた人物像の衣類・持ち物、更には家畜類から、当時の東西交流の様子を示す、貴重な物である事が明らかになっている。
旅行記録
日程 2004年3月16日〜3月27日
メンバー (長) 大阪教育大学教授・山田勝久氏
(参加者) 9名(男性;5名、女性;4名)
(添乗、案内) 日本旅行;弘中氏、中国・西部国際旅行;黄氏
(現地スタッフ) 運転手、コック等;7名
合計 日本側;11名、 中国側;8名
使用車両 中国製 DONG−YUNG大型六輪駆動トラック 1台
トヨタ ランドクルーザー 4台
3月16日(火)
日本側11名が関西国際空港に集合、新疆大学への留学生1名も加わって、10:20発JL785便で定刻出発。北京12:40着(現地時間)、3時間余りの快適な飛行。入国手続き後、現地旅行社の案内者・黄氏と落ち合い、2時間30分遅れの国内便でウルムチへ飛ぶ。(CZ9102便 B−767機で快適) 中国・国内便は液体類の機内持込み制限をはじめ手荷物検査は厳しく、私はトレッキング・シューズを脱がされて、それをX線検査された。又、便数が少ないのか、中国経済の発展に伴うものか判らないが、満席で帰路も同じ状況であった。
ウルムチ21:30着、4時間30分もかかり日本よりも遠い。ウルムチは人口250万の大都会、マイクロバスで今夜の宿「城市大酒店」へ。チェックイン後、隣のラーメン屋で新疆ビールとラーメン(ギョウザも食べたかったが、ギョウザ屋へ行かないと食べられない)の遅い夕食となった。
ビールは軽快な味で美味かったが、ラーメンは辛い上に馴染みの無い味付けで、麺も腰が無く、お世辞にも美味いとは言えなかった。シャワーを浴びて25時就寝。
3月17日(水)
中国全土が北京標準時間の為、ウルムチの如く北京より遠く離れた所では実質3時間近くの時差が生じ、朝の8時ではまだ真っ暗、8時半になってやっと明るくなって来る。
本日より中国側スタッフと合流し、以後その車で移動する(帰路3月26日ウルムチ空港へ着くまで)。10:30ホテル出発、山田先生と交流の深い、新疆大学を表敬訪問。新、旧学長が出席しての懇談、と1名の日本側新規留学生の紹介・引渡し。その後、構内の民族博物館を見学、調査を待つ貴重な発掘資料も多く展示されていた。続いて自治区博物館を訪ね、「楼蘭の美女」と呼ばれるミイラとご対面。他に10体程展示されているミイラと比べ、顔の皮膚に張りが残り、若くて鼻筋の通った、整った顔立ちが、生前の美しさを髣髴させる。但しこのミイラは楼蘭から少し離れた町「ハミ」から発掘された。従って展示説明に「眠れる美女」とあるが、この方が正しいかも。
市内のレストランで昼食後、トルファンに向け出発。途中「達坂城遺跡」を見学し、「交河故城」に18時過ぎに到着、1時間半程見学するもまだ充分に明るい。
今夜の宿「トルファン賓館」にて夕食後、大教大への留学生(2児の父親)の親の家に招待された。
街灯も無い真っ暗な細い路地の奥にある、日干しレンガ作りの典型的なウイグル様式の平屋は、裸電球1つがぶら下がるオンドルのある客室と、奥にある台所らしき所以外は暗くて見えないが、決して恵まれた環境にあるとは思えず、この中で留学生を送り出す力はどこから湧いてくるのか?更に今春、彼の妻も子供を両親に預けて、同じく日本に留学する事になっている、と言うが、国情の違いがあるとは言え、私には少し理解し難い事であった。
真夜中近くにもかかわらず、ご馳走と民族舞踊の大歓迎を受け、24:30ようやくお開きとなる。
ヤルダン(風化土推群)に囲まれた「龍城」での食事。3/18〜19の2泊
3月18日(木)
指定された車に各自の荷物を積んで分乗(3人/1台)し、10:30 出発。我々の車の運チャンは丸刈りの若くて元気なマ(馬らしいが略字しか知らない)さん。
カレーズ博物館を見学後トルファンの町を離れ、火焔山を見ながら荒野に石油井が点在する国道312を進み、川向うの荒涼とした岩山の麓に「勝金口千仏洞」を遠望する。ここで国道を離れて一般道へ入り、畑の広がる村を縫って吐峪?へ。近くの町で先導兼輸送車の大型トラックと合流し打合わせの結果、ウルムチからの連絡で、我々に先行して「自治区文物保護局員」随行の映画撮影隊が楼蘭に向かった様で、その間楼蘭へは立ち入り禁止となった模様。彼等の撮影後に素早く楼蘭に入れるよう、本日の「梧桐溝(ゴドウコウ)」テント泊予定を変更し、明日のテント泊予定地「龍城(リュウジョウ)」まで一気に進むことになった。
「吐峪?(トヨクコウ)千仏洞」へ着くも番人が居て、5月1日まで見学不可との事。仕方なく川向こうに見える斜面に、日干しレンガの家々がひしめく吐峪?の村を眺めて引き返し、町の食堂で「焼きウドン」の昼食。これは羊肉とたっぷりの野菜(赤とうがらしもたっぷり)を油で炒め、そこに茹でたウドンを入れて絡めた、辛いが野菜たっぷりの美味しい焼きウドン。
14:20 出発、途中「魯克沁(ロクチュン)」の町で給油し、いよいよ何かに掴まらないと頭を天井にぶつけそうな道を、車を連ねて最果ての町「リカル」を 16:00、通過し、クムタグ砂漠に突入する。
ここまで畑の中や村々を通り過ぎて来たが、季節が季節だけに緑色は全く目に入らず、近くの岩山は勿論、目に入る物の殆どが土色の、モノトーンの世界である。
しばらくは、乾いた広い河床に転がっている石を避けて、通り易い所を縫って走る轍を辿る道だが、意外な事にすれ違うトレーラーが多く、積荷は切り出された石材か鉱石が殆どで、その度に我々軽量車は道を譲って脇に避けて走る。この頃になると、後ろに積んだスーツケースが、しょっちゅうドカンドカンと床に叩き付けられるようになってきた。
17:30、河床が開け、低い山の間に広がる砂漠の一軒家(司机之家・ドライバーの家)で、パンク修理。こんな所に住む人が居たとは驚きだが、交通の要らしく行き交うトレーラーが結構多い。
ここで初めて、レンガ作りの小屋に掘った穴の上に、数枚の足場板を渡しただけの、中国式共同トイレの洗礼を受ける。男女の仕切りは在るが、その中はドアーは勿論、間仕切りも何も無く、下はうず高いウンチの山で強烈な臭気。女性は大変だー。
19:00[悟桐溝(ゴドウコウ)](と言っても何の目印も無い、礫混じりの砂漠の中)にて初めての夕食キャンプ。車を風除けにして冷たい風の吹く中、直径1.5m程の円テーブル兼調理台で、コックを中心に大きな中華包丁を器用に使い、中国側スタッフ全員が協力して、男手ながら器用に手際良く調理している。白麺と、野菜をたっぷり使った炒め物主体の食事で、辛いが味付けが良く美味かった。(強烈な火力のプロパンバーナー使用)
夕食後、漸く暗くなった21:30、真っ暗な砂漠にヘッドライトを連ねて「龍城」目指して先に進む。この先はただヘッドライトに照らし出される、砂埃に見え隠れする先行車の姿と轍を、いよいよ激しくなってきた絶え間ない上下左右動に耐え、車のハンドグリップを握り締めて凝視するのみで、どんな所を走っているのか、真っ暗闇でさっぱり判らない。
22:40「イルタレグチ鉱山」通過、未開の地に突入。此処までは遠くに時々明かりが見えたりしたが、以後米蘭(ミーラン)検問所通過までの丸4日間、対向車、人間は勿論(待合せ予定の人は別として)、生き物との遭遇は一切無かった。先導のトラックを見失ったり、GPSにて悪路の迂回路を探索したりして、真夜中の砂漠を時には宙に浮きながら進み、04:00 には核実験エリア(破壊された実験建築物の残骸を見た人も居る)を通過したらしい(我々には判らなかった)。05:15 ヤルダン(風化土堆群)の中の「龍城」に到着。ここも何の目印も無い。
車内にて周囲が見通せる明るさになるまで仮眠(寒くて眠れず)。再度若干移動し08:15テント設営。カップラーメンとパンの朝食の後、(3月19日)10時過ぎより就寝。
3月19日(金)
久し振りの寝袋・テント泊だったが、エヤーマットに綿掛布団とデラックス。疲れもあってか気持良く直ぐに熟睡、暑くて目覚めると14時頃で天気は良く、外気温は23度にもなっていた。
ウルムチからの衛星電話により「今日は終日動くな」との指示があり、白飯、レバー、玉子・トマトのスクランブル、ジャガイモ千切り炒め、きのこ炒め、と豪勢な昼食の後16時頃より付近のヤルダンを散策。礫の中に「玉石」でもないかと皆目を皿にして探すが、そもそも本物を良く知らない我々には無理で、その内に「何かの骨が埋まっている」との叫び声で駆けつけ、掘ってみると、層状に固まった塩だった。ヤルダンの間の砂礫砂漠は、以前は川もしくは湖の底だったらしく、砂礫のすぐ下は固い塩の層になっていて、シャベルで更にその下まで掘ろうとしたが、シャベルを殆ど受け付けなかった。
ウルムチからの指示で「明日の昼以降、楼蘭に入れ」との事なので、ここでもう一泊する。夕食は時間に余裕があるので手間を掛けて、豪華夕食(炒めウドン、ノリときゃべつのサラダ、生キュウリにみそ、羊肉とニラの炒め物、)となる。21時頃より、外気温が10度以下に下がってきた中で、防寒衣に包って、熱い食事に、缶ビール、ブドウ酒、白酒、も出て満腹した。
後は各自トイレに散って、テントに潜り込むだけだが、これが要注意で、夜中一人で出て少し遠くに行くと、テントに明かりが無く、周囲は同じ様なヤルダンの崖が並び、しかも漆黒の闇の為、方向が判らなくなり、テントに帰れなくなる恐れがある。現にテントが見つけられず、明るくなるまでトイレ地点で寒さに震えていた人が居たらしい。
楼蘭への道、軟らかい砂にタイヤがめり込む。先行車の悪路突破を待つ。3/20 20時頃
3月20日(土)
朝4時、まだ真っ暗な中トイレに出、暫くしてテントに戻って間もなく、パラパラとテントを打つ音がした。雨だと思ったが、こんな砂漠の真っ只中では信じ難い事だった。9時起床して見るとテントのたるみに水が溜まり、中にも少し入っていた。雨は本物だった。
朝食後、10時〜12時まで自由時間。晴れ間が拡がる事は無く曇天だが、歩くのには支障はなさそうなので、少し遠くまで歩いてみる。後ろを振り返ってテント場への帰路の目印を確認し、目に焼きつけながら北の方向、遥か天山山脈らしき山並みが霞んで見える方へ、道連れとなった2人と共に先の景色を期待して、ヤルダンや砂礫の連なりをカメラに収めながら30〜40分も進むが、先はどこまでも同じような砂混じりの礫の丘が連なっていた。
ウルムチからの衛星電話で「映画撮影隊が楼蘭を12時頃出発し、1時間ほどで我々のテント場の遠くない所を通過するだろう」との情報を得る。
13:30 から昼食の後テントをたたみ15:00 出発。いよいよ楼蘭に向かっての行動を再開す
初めは砂礫(ゴビ)の走り易い道(轍)も、針金の張られた「楼蘭文物保護管理区」に入るとだんだんと悪くなる。若羌(チャリクリク)県文物保護局員と合流し楼蘭古墳群(土根遺跡)へ16:00到着(ここで彩色壁画、彩色木棺等が発見された)。その後局員と別れ、楼蘭故城へ向けて枯れたブッシュが生えている砂地の凸凹道を進み、途中、楼蘭方城を見学。葦やブッシュを土で固めた、一辺がおよそ200~250mの、四方を囲む崩れかけた城壁が面影を残すのみであった。
この先は小高いヤルダンの間の柔らかい砂の轍を、砂に自由を奪われてもがきながら、互いに助け合って脱出したり、勢いをつけて砂の急坂を登り直したりしながら進む。こうなると中国側スタッフ全員が、時には車を降りて、砂まみれになって走り回り、何度か経験しているらしいこの道を、如何に乗り切るか、プロの面子に掛けている様子で、頼もしさが感じられる。
この様な、大地が風砂に依って溝状に削られた風蝕地帯を、時速10Kmも出せずに進む内に暗闇となり(21時)、ヘッドライトを頼りに進む事2時間、楼蘭までもう少しだと云うが、今度は岩礁地帯に入り込み、暗闇で見通しがきかない為、先導トラックの二人が懐中電灯を頼りに徒歩で誘導したりして、GPSで確認した楼蘭を目指すがその位置が特定出来ず、23:45野営を決定。
[ N;40°30′44″1 E;89°41′07″1 H;+735m ]
冷たい強風が吹き付ける為、車を寄せ合って風除けとし、防寒着を着込んでテーブルを囲んで簡単な暖かい夕食(麺)を食べたのが25時、早々とテントに潜り込んだ。
楼蘭故城の住居跡。胡楊の柱が今も残っている。
3月21日(日)
まだ薄暗い8:15 起床、気温3℃、テント場は遮る物が全く無い砂砂漠の中。吹き付ける強い風に砂が流れ、飛ぶ。砂嵐の接近も心配され、インスタントラーメンで朝食を早々に済ませて10:30テントを畳み出発。強風で所々掻き消された昨日の轍を辿って途中まで戻り、再度楼蘭への道を進む。天候は回復し晴れ間も見えてきたが、以前は森林もしくは草原地帯と思しき枯荒野の中を、古い一本の、微かに残る轍の、柔かく深い砂に悪戦苦闘しながら進む事3時間、ついに13:20 楼蘭故城の崩れかけた烽火台に到達。ここでは古銭や古陶器片が見つかることがあり、全員付近を捜しまわる。銅製指輪の破片や古銭が見つかった。
遠くに見えている、目指す仏塔の所まで更に30分、14:00 とうとう楼蘭故城遺址に到着。
[ N;40°30′51″9 E;89°54′34″8 H;+754m ]
空も晴れ渡って暖かく、気持の良い、散策には絶好の日和となった。簡単に入り込める鉄柵を周囲に巡らせた広大な遺址に入り、約1時間散策する。
少し離れた所に聳える、写真で見覚えのある仏塔の方へ、白い骨片が砂に埋もれて散らばり、木の柱や朽ち果てた葦の囲いが残る、小高い住居跡を通り抜け、古い土器の破片を拾いながらゆっくりと歩く。青空の下、仏塔の基に立つと、「遥けくも来たもの!!」と感無量となると共に、ここに人の営みがあった事が、信じられない思いだった。仏塔は明らかに人工の建造物と判るが、2000年に亘り太陽と風砂に依る侵食に遭い、崩壊寸前の様相で、長い木材の付っかい棒が見られる。
もう少しゆっくりしたかったが、制限時間が近付き、車へ引き返す。
15:30、コルラ産の梨とクラッカーの昼食を食べながら、ロプノール西岸目指して出発。来た道を少し引き返し、2時間程同じ様な深い砂の轍を、先を確かめながら辿ると、砂が浅くなりロプノール湖底へ出たようだ。左手遠くに天山山脈を望み、東に向かって一直線に延びる、路肩に岩塩の大きなブロックを並べて、目印としている塩の道を、更に30分程進み、まだ陽の高い、18:00、道脇の砂の窪みの平地を今夜の宿営地とする。
[ N;40°34′41″4 E;90°09′02″6 H;+724m ]
ここは北に遥かに天山山脈が霞んで見えるのみで、他は全て遮るものの無い大地が地平線まで拡がっている。又、周辺の塩を含んだ硬い砂地は風砂に削られて、丁度砂丘の風紋と同じ、きれいな模様が付いているが、今にも手を切りそうな、鋭いナイフエッジとなっているところもある。
20:00、楼蘭故城到達成功を祝して乾杯の後、羊肉とキャベツの炒め物、トマトやニラの卵とじ、等々盛沢山の手間を掛けたご馳走が出され、酒も入って歌の交歓まで始めた。中国側は勿論全て中国語で歌っており、その中でロシア民謡「トロイカ」、日本の「北国の春」ぐらいは判ったが、他はリズムの良い歌が多かったものの、中身はさっぱり判らなかった。
昨夜は遅かったので、21:30、就寝。この夜の冷え込みは、それ程では無かった。
ロプノール湖心近く。旧湖底は土混じりの岩塩でカチカチ。360度遮る物はナシ。3/22
3月22日(月)
昨夜は睡眠時間も充分で、まだ夜明け前の8時起床。気温0℃。ナンと大根・人参入り骨付き羊肉スープで手早く済ませ、10:20、快晴の空の下、一路ロプノール湖心を目指して出発。岩塩が踏み固められて走りやすい、一直線に東に延びる旧湖底の道を、朝日に向かってかなりの速度で走り出す。次に標識も何も無い所の分岐点で、90度南へ一直線の道を、と最初に磁石を頼りに道を辿った踏み跡、と思われる轍を忠実に辿り、1時間程で湖心に近い、中国の探検家・余純順の墓標に到着。更にもう一箇所の遭難碑を過ぎて、12:00、ロプノール湖心に到着。
[ N;40°25′35″5 E;90°18′36″1 H;734m ]
ここは360度見回しても、地平線以外何も目に入らない、うんざりするほど平坦な大地がどこまでも広がり、しかも快晴で暖かく、爽快な気分となる。しかしこの先の道のりに不明な点も多く、先を急いで10分程の休憩で出発。これまで湖の西半分を走って来て、「湖水」は全く見当たらず、この先更に湖を南西に米蘭(ミーラン)に向けて走ったが、結局「湖水」を見る事はなかった。
走り易かった轍も、たちまち、時速10Km程しか出せない、岩塩の波打つ悪路となる。1時間程でこの悪路を抜け、未舗装だが整備された道に出ると、スピードを上げて西へ南へと標識も無いのに道を選んで走る。14:30、には外気は32℃にもなり、朝との気温差は30℃以上、着込んだ衣類を一枚づつ脱いで調節するが、冷たい風が気持良い。15:00、トイレ休憩を兼ねて、コーラとりんご、ソーセージの昼食。
どこまでも平坦な大地を再び走り出して暫くすると、視界が急に悪くなり、砂嵐の黄色い砂に閉じ込められた。車はその中を先導トラックの轍を頼りに、車列を組んで進むが、車の中にも細かな砂が入り込む為、眼や鼻はたちまち土色に汚れる。嵐が去ると左側遠くにヤルダンの蜃気楼が見え、17:30、無人の検問所を通った所でロプノルを抜けて湖岸に着いた模様。19時頃道端に送電用碍子がほぼ同じ間隔で、数個づつ纏まって転がっているのに気が付くも、何に使うのか?捨ててある物なのか?全く判らない。薄暗くなってきた20:20頃、これまでの行程で初めて見る「水溜まり」の残った川を横切った。
20:40、米蘭(ミーラン)故城に到着。崩れかけた城壁が茫漠とした砂漠の中に残っていて、暗くなってきた所為か、うら寂しい。
[ N;39°13′34″4 E;88°58′15″5 H;882m ]
少し離れた所にある仏塔まで、懐中電灯を頼りに往復した後、暗闇の中、21:10出発。10分程でゲートの閉まっている米蘭検問所へ着く。砂漠なら他を通り抜けられると思うのに、不可能らしい。私服の警備員との交渉が続き、21:40、やっと通過出来た。(米蘭故城への立ち入りは原則禁止されているとの事で、もしも何か聞かれても、「口を利くな」と口止めされた。)
この先、道路沿いに街灯がぽつりぽつりと灯り、久し振りに人の往来する姿を見かけたが、その村を走り抜けて、簡易舗装された道を砂塵を巻き上げて突っ走る。ライトに浮かぶ道路脇の林が尽きると、道路を横切る砂の山が現れ、再び砂漠に入ってきた様子。23:00、この道路上でテントを張る事になった。直ちに夕食の準備を始めたが、車が通らないのか気になった。
[ N;39°26′54″5 E;88°28′31″6 H;749m ]
24:00、夕食、テント泊最後の夜になり、残り物を全て使って、豪華夜食となる。(茹麺に好みの具をかける主食に、ソーセージや玉子の入った野菜の炒め物、缶ビール飲み放題)
道路脇の砂地に張ったテントで24:40、就寝。
3月23日(火)
9:30、起床、昨夜は暗くて判らなかったが、テント場は砂漠の中に一直線に延びる簡易舗装道路の上で、周辺には刈り取られた跡の残る葦の株が散在し、水のあった事が伺える。昨夜で大型ポリタンで運んできた水も尽き、今朝は非常用のペットボトルのミネラルウオーターを使ってパック入りの牛乳を温め、ナンとジャムに白桃・みかんの缶詰、と洋風朝食。
11:40、出発、この道を先へ暫く進むと、道路脇に水溜まりが現れ、冬枯れの葦が茂っているのが見えてきた。更に先へ進むが、先導車の偵察に依ると、この先は水に浸かって通行不可との事。12:30、引き返して迂回する事を決定。先導車の偵察を待つ間、水際に降りて「玉石」拾いを始める。
15cm程の魚のまだ目の黒い死骸も見つかった。こんな所に魚が生息していたとは驚きだ。引き返して昨夜のテント場を過ぎて暫く戻った所で、野生の鹿の群れを、少し先で二羽の鴨を見かけた。砂漠に入って以来初めて見た野生動物だった。
昨夜走った道を途中まで引き返し、現代の西域南道(砂漠化の進展に伴い、古の道より遥か南に移り、古の道は今は砂漠に埋もれて不明)沿いに在る36兵団の町を通過、一路東に向い15:30チャリクリク到着。給油の後、バスターミナル横の食堂で「焼きうどん」の昼食。
[ N;39°01′49″6 E;88°09′57″5 H;835m ]
今夜は此処の招待所(中国解放軍の宿舎で、外貨獲得の為に一般旅行者も宿泊可としたらしい)に宿泊予定だったが、ウルムチとの連絡で街に大雪の恐れがあるとの事。時間も早いので「出来るだけ進んでおこう」と云う事になり、宿泊場所をこの先にある34団招待所に変更、17:00出発。
此処チャリクリクで西域南道と別れ、北に向ってタクラマカン砂漠を横切り、タリム河に沿ってコルラに繋がる、舗装された国道218を行く。今年はタリム河の水量が豊富との事で、道に沿って水面が拡がり、その内に小さな橋が架かっていて、道路の左から右へと水が滔々と流れている所を通過した。「これが砂漠の中か?」と、驚かされた。水が見られなくなっても、胡楊の大木が生い茂る林を横切ったりするので、地下には豊富な水脈のある事が覗える。又、1960年代に囚人に築かせ、一時は200kmもあったと云う「世界最長のレンガ道」の、残部も見学した。
20:10夕闇迫る中、日干しレンガ作りの四周の城壁のみが残る、「吐拉里故城」を見学する。
[ N;40°34′59″4 E;87°47′16″0 H;777m ]
21時少し前に34団招待所に着くが街全体が暗闇に包まれている。交渉の間待っていると、突然一斉に街に明りが灯った。時計を見ると21時、どうやら給電制限をしているらしい。少し離れた34団小苟招待所にて宿泊する事になった。
[ N;40°38′57″1 E;87°41′34″2 H;793m ]
此処は平長家の宿泊施設で部屋にはベッドと、ガランとした別室に洋式トイレ・洗面台・シャワーが在る。夕食の後、六日ぶりに体を洗えると期待していが、シャワーからはいつまで待っても水しか出て来ない。いくら何でも水ではかなわないので、管理人から説明のあった共同シャワー室に行く。トップバッターだったので、湯は出るもののコンクリートむき出しの、何故か大き過ぎる部屋は寒くて堪らなかったが、砂漠に入って以来、ウエットティッシュでいくら拭いても取れない手の土色の汚れや、細かな砂でざらざらになった髪の毛を始め、全身を石鹸で洗う事が出来、生き返った気がした。今夜からテントで寝る事も無くなったので、荷物を整理し直して寝たのは25時だったが、久し振りのベッドに、目覚まし時計のお世話になった朝まで熟睡出来た。
3月24日(水)
7:00、気持ち良く起床、顔を洗い、ひげを剃る、いつもの朝のリズムが懐かしく感じられる。荷物を整えている内に突然電気が消えた。8時丁度、給電停止らしい。8:30 から棟続きの食堂に行くと、曇天のため薄暗い室内にローソクが燈され、その明かりで、おかゆや肉まん等の朝食を、久し振りに寒さに震えることも無く、ゆったりとした気分で食べることが出来た。
9:00 今日はコルラの「鉄門関」に立ち寄り、コルラ泊の予定。曇り空から時々雨もぱらついたが、しばらくは砂漠の中、胡楊の林や枯れ草の残る砂山の間を抜けて、車の往来の激しくなって来た道を一時間程走ると31団を通過する。道路沿いにポプラ並木や果樹園が現れ、灌漑用水路に沿って木々に囲まれた耕作地も見られる様になり、砂漠を離れつつある事が感じられる。
11:20 尉犁県塔里郷の、道の両側に並ぶドライバー食堂の一軒にて、羊の丸焼きを一匹分買って、ナンを主食に食べたが、玉子を表面に塗って焼いた表面は香ばしく、非常にうまかった。
[ N;41°17′23″4 E;86°16′27″6 H;819m ]
12:20 出発、ウルムチより「明日大雪の模様」との報告が入り、高速道路が閉鎖されると帰り着く手段が無くなる恐れがある為、コルラ泊の予定を急遽変更し、ウルムチまでこのまま走る事になった。13:00 にコルラ到着し給油。此処はタクラマカン砂漠開発の一拠点となっているらしく、少し離れた丘の上には30階建て位の高層住宅が立ち並び、道路沿いにも新しい近代的なビルが並ぶ新市街が出来つつあるが、一方古いトタン屋根や日干しレンガの平家がならぶ地区もあり、道路も車や人通りが多く混然としているが、活気のある街であった。先を急ぐ為「鉄門関」へ行くのも取り止め、重荷を積んだトレーラーも行き交う、交通量のびっくりする程多い道を進む。コルラから一山越え平地に出ると、建設中の高速道路と未完部の砂利道が頻繁に交錯する。
17:30 庫米什にて少し早めの皿うどんの夕食。食後の散歩で、裏の砂山の向こうに崩れかけた城壁が遠望出来たが、名称も時代も判らない。18:45 出発、間もなく峠道にさしかかり、高々と聳える岩山の裾を登りきり、今度は河沿いの今にも崩れてきそうな岩が頭上に引っ掛かっている谷間の道を、重荷に喘いで登ってくるトレーラーとすれ違いながら下る。2台のランドクルーザーが相次いで不調になり、下りを利用して、薄暗くなって来た20:30何とか山道を抜ける。
一台はエンジントラブル、もう一台は前輪サスのトラブルらしく、自分達では手に負えないので、低速で次ぎの町トクスンに辿り着き、修理屋へ直行するも、2台の修理には4~5時間必要との事。運転手も朝から650Kmも走り続け、疲れきった様子でもあり、このままウルムチまで走るのは無理と判断、そこに宿泊する事になった。
21:00 トクスン、「鴻雁賓館」(HONGYAN HOTEL)に到着。やっとホテルと呼べる所に宿泊出来た。バスタブは無いが、暖かいシャワーを存分に浴びて、気分良く着替え、久し振りに日本へTEL.しようとするが、受話器に全く反応が無い。コードを辿ってみると途中で途切れたままなので、受付の女の子を呼び、身振り手振りでコードの切れているのを示すが、対処できず結局ダメ。受付の電話を使う羽目になる。(部屋の電話機は飾りの置物か?)
その後、中国スタッフの一人、マウンテンガイドの「Song Yu Jiung」君を案内役にして、同行の服部さんと3人でバザールへ行こうと夜の町に繰り出したが、最初にビールと本場のシシカバブーで乾杯し、さて次は?となったが身振り手振りの会話が通じず、結局ホテルへ逆戻り。後で聞くと、この旅で本場のシシカバブーを食べたのは我々だけだったらしい。
3月25日(木)
気持ちよく晴れた朝 9:00 ホテル近くの食堂で、おかゆ、ニラのパオズ、ナン、揚げパン、の朝食。修理も終わって快調なエンジン音を響かせる車で、ウルムチに向け 10:00 に出発し、直ぐに高速道路に入る。30分も走ると、行きに通ったウルムチ〜トルファン間の高速道路に合流する。ウルムチに向けて山岳地帯を過ぎると、視界が開けて、遠くに白雪頂く天山山脈の美しい姿が、その手前には広大な大地に羊の群れが草を食む、牧歌的な景色が広がっている。その中を横切り、濃緑色のディーゼル機関車に牽引された長大な貨物列車や、二階建車両も混ざったカラフルな旅客列車が頻繁に行き交うのが見受けられる。
やがて高層ビルが聳えるウルムチ市街に入り、12:30 「城市大酒店」に到着。シルクロードの旅はここで終わった。ここまでの総走行距離は2100Km、時速10Km/Hrも出ない、とんでもない悪路もあった中、人も車もよく耐え、頑張ったものだ。
久々に寿司や天ぷらの日本料理の昼食の後、ウルムチ市内の観光へ。バザールへ案内されたが、地下1F、地上3Fのビル中。デパートの物産展みたいで全く興醒め。しかし乾果実類は豊富で値段も安く、特に薄くグリーン懸った白干葡萄は此処の特産でお勧め品。
夕食は街中のレストランで「中国側スタッフとのお別れ宴」。美味しいご馳走に、白酒(度数50%)、ブドウ酒、ビールもたっぷり、新疆大学への留学生も加わり、これまでの苦労話や失敗談を肴に別れを惜しみ、余った物資(フィルム、衣類、嗜好品、etc.)をプレゼントして、彼等の尽力に感謝の意を表した。ここで楼蘭・ロプノール到達の証明書(新疆中新国際旅行社発行)を手渡された。
8日振りにバスタブに湯を張って旅の汚れを流し、疲れを癒して気分良く就寝。
3月26日(金)
8時起床、まだ薄暗い窓外を見ると、何と雪がこんこんと降っていて、街中真っ白だ。先日来の心配が当たり、昨日ウルムチに到着しておいて正解だったと、ガイドの選択に感謝する。朝食後出発時間まで、思いも掛けぬ所での雪見と、ホテル前のロータリー周辺を雪の降る中散歩した。
12:00 にホテルを出て、これまでお世話になった運ちゃんとも空港でお別れ。お互いに笑顔で握手して「バイバイ」「謝々」「再見」・・・。
空港では除雪作業が続いているが雪は止んできており、飛行機の発着も見受けられるようになり、この分では出発は大丈夫と安心する。中国南方航空CZ9103便(やはり満席)にて15:00 定刻離陸し、18:00北京着、偏西風の影響か往路よりも1時間も早い。
西域民族舞踊レストランで、ウイグルの民族舞踊を楽しみながら、最後の新疆料理の夕食を摂る。今夜の宿「台湾飯店」チェックイン後、揃って夜の街の散策に出かける。ホテルに近い繁華街「王府井(ワンフーチン)大街」を抜けて、巨大なホテル「中国北京飯店」の角を曲がって「天安門広場」へ。ニュースでよく見る「門」や「広場」も、夜の為に見通しが悪いものの、その巨大さには圧倒された。
3月27日(土)
この旅の最後の日となった。7:00 からのこの旅行で一番豪華なアメリカンスタイルのバイキング朝食の後、飛行機の出発時間まで市内見学をする。8:00 ホテルを出発、まずオリンピックに向けての市街の整備が進む中で、取り壊される運命にある、古き良き時代の面影を今に残す町並みの残る、「胡同(フートン)」に向かう。昔ながらの輪タクに分乗して、北京の伝統的家屋「四合院」が立ち並ぶ狭い路地を巡り、途中その中の一軒に家庭訪問し、庶民の生活を垣間見る。
次に「天安門広場」前の漢方薬店に寄り、漢方の「ツボ」のレクチャーや即席診断の後、漢方薬を個々に推奨されたが、言われた通りに買うと、とんでもない金額となるので、適当に逸らしておみやげ程度を購入する。後、目の前の天安門広場を回ってみた。黄砂の所為か晴れてはいるが全体が何となく霞んだ様な日であるが、大勢の人が押しかけていて、とてつもなく広い広場を挟んで天安門と対峙して建つ、毛主席の遺体が水晶の柩の中に安置されていると云う「毛主席記念堂」には、一目見ようと云う人々が長蛇の列を作り、根気良く待っていた。又、広場は凧を揚げたり、そぞろ歩きをする人々で溢れていて、人海戦術の国らしいマンパワーを見せつけられた気がした。
14:00 発JL786便にて関西国際空港に17:30 着、往路より早く、正味2時間30分の飛行。
長いと思っていた旅も、終ってみれば、「もう少し時間が欲しかった」とか、「あそこの写真を、もっと撮っておけば良かった」とか思い直す場面も多い。
スウェン・ヘディンの「中央アジア探検紀行全集」を、順次買い揃えて読み耽った時からシルクロードに憧れ、何時かは自分の目で確かめ、雰囲気を感じたいと思っていたが、その願いは3年前の夏に、西安(長安)・成都・ラサ・敦煌・トルファン・ウルムチと巡った旅で初めて実現できた。
今回は図らずも、ヘディンの言う「さまよえる湖・ロプノール」と、謎とロマンに包まれた古代王国「楼蘭」の、故城遺跡と彩色壁画の発見された古墳に、足跡を印す事が出来るチャンスに恵まれ、同時に4WDに依る得難い体験をしたが、シルクロードにはまだまだ行ってみたい所も多く、限りある体力と資金のバランスを見ながら、これからも旅が出来れば・・・と思っている。
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