北穂池探訪と事故の顛末
―事故はどこで、いつ起こるか分からないー
藤本 勇

槍・穂高連峰の標高2000米以上の地点に4つの池がある。北から順番に
  1. 槍沢の天狗原の天狗池
  2. 北穂高の東面の北穂池
  3. 前穂高の奥又白谷の奥又白池
  4. 明神東稜の瓢箪池
がある。一般の登山者が訪れることの出来るのは1番の天狗池である。後は熟練者のみが許される池である。3番や4番は若いときに岩登りの合宿で訪れた池である。2番目の北穂池は槍と北穂の間の縦走路を歩いていると望見出来るが、実際に訪れる人は少ない。
 愚息が信州大学に在学中に4シーズンを北穂高小屋でバイトをしていて、滝谷などで遊んでいた。その愚息からは、いつも「オヤジ、北穂の池を知ってるか」と言われていた。愚息は「北穂の池は本当にいい所やで」と申していた。機会があれば一度は訪ねたい場所であった。また、山岳写真で涸沢のナナカマドの紅葉の素晴らしさを見る度に秋の涸沢も行ってみたかった。

涸沢の紅葉

今年も横尾本谷の紅葉は素晴らしかった

期間 平成13年9月26日―29日
 メンバー 小笹、佐々木、藤本 
9月26日 晴れ
 上高地(7:45)―明神(8:30-8:35)―徳沢(9:20-9:45)―横尾(10:40-11:00)―横尾本谷(12:00-12:15)―涸沢テント・サイト(14:20)
 駒ヶ根のヒュッテを早朝出発する。上高地は平日で時間が早かったのか観光客も少なく静かであった。久しぶりの上高地であったが先を急ぐので素通りする。奥又白の出会いには大先輩の泉・佐藤・三島さんたちが建立された銅板碑が数年前の鉄砲水で壊されたので、涸沢の帰路には久しぶりに立ち寄って銅板がどうなっているかを確認することとする。
 横尾の橋が新しく立て替えられていた。本谷の出会いも大勢の人たちが休憩されていた。大半の人たちは涸沢の紅葉を見に行く人たちであろう。
9月27日 晴れ後曇り
 涸沢TS(8:20)―ゴルジュの上(9:15)―北穂小屋(10:45)
 奥穂を日帰りで往復する予定であったが、天気が下り気味とのことで変更して、今回の目的である北穂池探訪のために北穂に登ることとする。北穂の南稜の取り付きまでのナナカマドの紅葉が素晴らしい。写真機のいいのがあれば良い作品が出来たであろうに。振り返ると前穂高北尾根の稜線が鋭く聳えていた。
 愚息が連絡しておいてくれたので、北穂高小屋のサービスは満点。個室に入れられて、夕食時は生ビールを注文もしていないのに出てきた。昼からは何も用事がないので小屋でクラッシック音楽を楽しむ。京都から来た87歳の老人などと山の話に花が咲く。
 夕食後、小屋番の足立さんから北穂池へのルートを教えてもらう。
9月28日 小雪のち晴れ
 北穂高小屋(8:20)―A沢のコル(9:40-9:45)―北穂池(11:00-11:30)―北穂東稜(13:00-13:10)―涸沢TS(15:00)
 夜来の雨が明け方から雪になった。小屋の前のテラスに2−3センチほどの新雪が積もった(翌日の新聞によると昨年より24日早い初冠雪との報道)。天気予報では午後からは晴れるとのことだったので出発を少し遅らす。
 8時頃になって雪もやみ、槍や横尾の本谷が見えだした。ここより北穂東稜の北側に小さな池が見えた。今日はあの池を巡って涸沢までの行程である。
 小屋からは大キレットへの縦走路を下る。飛騨泣きの難所は新雪が薄く積もっていた。道標のペンキも雪に隠れていた。飛騨泣き付近から振り返ると滝谷の岩場が薄気味み悪く聳えていた。A沢のコルまでは初冠雪の中を慎重に下降したので時間がかかった。
 A沢のコルからは横尾の本谷源頭部の流心には背を向けて、右下方にトラバースしてガレ場を行く。途中に10メートルほどの灌木帯があって、ブッシュ漕ぎをさせられた。小尾根を乗り切ると北穂池が見えた。コルからは踏み跡もケルンもなく、浮き石だらけのガレ場であった。

[事故発生] 
先を行く佐々木君に追いつこうとしてガレ場の浮き石でバランスを崩して5米くらい滑落する。出発前に着込んだ冬用のダブルヤッケを歩きながら脱ごうとしていた。右膝の臑の所を強打した。左のメガネレンズがひび割れていた。右膝からの血が落ちて靴を汚している。幸いにも頭は打っていないようだ。最後尾を歩いていた小笹君に頼んでストックなどを回収して貰う。右の肋骨も少し痛い。薬も持っていなかったので、応急手当も出来ずに、そのままの状態で北穂池に向かう。
 北穂池は大小3つの池からなっている。真ん中の池からはピラミダルな常念岳が見えた。
天気が良ければ2−3日、本でも読んでゆっくりとしたい場所だ。テント場が一つだけあった。ゆっくりと昼食を食べたかったが、涸沢までの道程が心配なので急いで出発する。
 足立さんに教えられた「細い沢」を入り、草付きの嫌なルンゼを登る。緊張を強いられるので、先ほどの事故による怪我の痛さを忘れた。何とか北穂東稜のコルまで自力で登ることが出来た。
 コルから北穂沢への下りは斜度60度はあろうかと思う岩場を降りねばならない。クライミング・ダウンで慎重に下っていく。一般道に出てからは緊張度も融けたので、体の痛みがひどくなり、休み休みして涸沢のテント・サイトまで頑張る。
 涸沢ヒュッテに行って救急箱から消毒剤と包帯を貰って傷口の手当を小笹君にしてもらう。膝の下で横5センチ、縦5ミリほどの裂傷であった。

9月29日
昨日の怪我の痛さで、ほとんど一睡も出来ずに朝を迎える。果たして上高地まで歩けるだろうか。テントを撤収して個人装備だけで山を下りようとしたが、膝の痛みがひどく歩くことが出来ない。恥を忍んで涸沢ヒュッテの山口支配人にヘリコプターの出動を要請した。
山口支配人「お客さんは山岳保険に入っておられますか」と問われた。
小生「日本山岳会の保険に入っています」
山口支配人「それでは上高地に民間のヘリが来ているので、それを呼びましょう」
今日は土曜日なので病院も昼までのところがほとんどなので、午前中ならば専門医もおられることと思い、時間の余裕がないので民間機にした。長野県警のヘリならば費用はかからないが、民間のヘリならば幾らくらいの請求がくるのかな。
ヘリの出動を依頼してから30分もせずにヘリが飛来してきた。ネパールでは何度もヘリコプターに乗ったが、日本国内では初めてである。付添人の一人はOKとのことなので佐々木君に乗って貰う。ヘリは屏風の頭の近くを越えて、梓川をひとまたぎして豊科の町に飛ぶ。途中、ヘリの後ろには前穂高の東面が朝日に輝いていた。ヘリに乗って僅かに10分で豊科のヘリポートに到着する。そこには消防署の救急車が一台止まっていた。担架に乗せられて救急車へ。初めて乗る救急車。車中で救助隊員から事故の状況などを尋問された。
病院は豊科赤十字病院。整形外科の救急扱いに回された。レントゲン撮影では骨には異常は見あたらなく、若い担当医が麻酔注射をしてくれ、右膝下を6針縫ってくれた。
激痛が走るなか、徒歩で豊科警察署の地域課に出頭して遭難事故報告書の用紙を貰ってくる。担当の警官に詳しく事故の詳細を報告しようと思ったが、先ほどの救急車での尋問が既に連絡されていた。警官は「山岳遭難防止対策協会」より「救助出動費」が請求されるので支払いをするように言われる。
下山時には膝の痛む小笹君が涸沢を8時過ぎに出て、上高地まで韋駄天のように掛け下り、沢渡に止めてあった車を拾って病院まで駆けつけてくれたのが午後3時半頃であった。これには頭が下がった。
帰阪後、すぐに保険代理店に事故報告をすると保険会社宛の「損害保険金請求書」なるものが送ってきた。

[追記]
1. 山岳保険は装備の一つである。山登りをする人にとっては山岳保険をかけねばならない。
2. 抜糸は10月10日。肋骨の痛みは10月20日頃まで続く。その間、湿布とコルセット。
3. JACの団体傷害保険に加入している。死亡・後遺傷害200万円、遭難捜索費用200万円で年間保険料は11150円(F1コース)。
4. ヘリコプター代は42万円。救助出動費は2万円の請求があった。もっと大きな遭難であれば捜索のヘリ代や救助費は数百万円だろう。
5. 損害保険会社の審査があって全額保険で適応されることが決まったのが10月26日。その金額が私の野口座に振り込まれたのは11月15日であった。
6. 保険代理店の人の話では、最近は一般道で捻挫をしたり、一晩山小屋で泊まっていたら気分が悪くなってヘリコプターを呼んだりしているケースもある。まるでヘリをタクシー代わりに思っている登山者がいる。保険請求に際しては事故の救急性で判断されるそうだ。損保会社も救急性の低い事故?の場合は保険の対象にしないそうだ。


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