小窓尾根-早月尾根厳冬期登攀に思う
(1963年12月〜1964年1月)
龍田紘男(1965卒)
新聞記事のダイキン工業社長になる岡野幸義氏を読んだ時、私は岡野先輩と共に参加した、40年前のこの冬山登攀の事を思った。
彼は4回生で、大阪市立大学山岳部員として最後の合宿である。この時、ダイキン入社は決まっていたはずであるが、当時山岳部では就職に関心があまりなかったのか、よく覚えていない。それだけ、今回の社長就任は快擧である。いつまでも頑張って欲しと思う。
さてこの合宿では、部員は2隊に別れた。彼と私は小窓隊で7名、早月隊は10名程度であったと思う。早月隊は剣の頂上に最終テントを上げ、縦走隊員のサポートをする。小窓隊は2400mまでテントを上げ、縦走隊員2名を剣頂上に向かわせるという計画となった。
計画には紆余曲折があつたがここでは触れない、詳しい事を知りたければ、この時のリーダー進藤に電話をするといい。快く話してくれるであろう。しかし、忠告をしておくが、彼は今も無類の話し好きである。
縦走隊員には岡野先輩と私がすることとなった。彼は非常にタフな男であった。しかし、私もタフである。何故なら、私は背が高いから。と例えば言ったとしても、彼はニコリともしなかったであろう。くわえて彼は、大人でいつも冷静であった。
この登攀は、結論から言えば、成功した。ひとりの怪我人も出さず、食料もあまし、全員無事下山した。
しかし、我々は本当にこの山を登ったのだろうか?と疑問もあった。
なぜ私は40年前のこの登攀のことを、今思い出すのか?
この登攀に出来事が3つある。それを話すると、その疑問は判って頂けるだろう。
出来事その1
小窓尾根で、急な斜面をトラバース気味の登る。いよいよ斜面が急になるのでルートを稜線方向に取った。露岩でルートはここしかなかったのである。足場は平らとなり、歩きやすくなる。結果として小窓隊全員が雪庇の付け根を歩いていたのである。私、岡野さん、他2人がここを歩いている時、巾500cm長さ4mほどの雪庇がドーンという音と共に崩落した。音と崩落との間に時間が有ったのか、前の3人は反対側に倒れこみ難を逃れた。最後の私のみが尾根にぶら下がったのである。断崖絶壁である。直前を歩いていた岡野さんに助け上げられた。彼の顔も真っ赤であった。やり場のない怒りと、後悔。
出来事その2
場所はよくわからない。やや急な斜面である。その先は切れ落ちている。岡野さんと私は並んでその斜面に立っていた。突然、その斜面が、サワサワとかすかな音と共に白い煙を上げて動いた。「アツ、雪崩だ」、2人身体は谷に向かってスーッと滑り始めた。ピッケルとアイゼンのガリガリと岩を噛む音と共に止まった。一瞬の出来事である。我々は思わず足場を確認していた。大丈夫だ。かすかに震えているのを感じていた。
出来事その3
早月尾根の下りである。昨日は悪天候で沈殿する。今日はガスつているが時々青空も見える、風は残っていたが、強くない、又冷たくもない。天候は回復に向かっている。剣頂上のテントを撤収して下山することにする。下山途中で、尾根上の緩い露岩のある斜面で、フィックスザイルを頼りに4人が下る。先頭の児山さんは下りきっていて、フィックスザイルにそつて7m間隔程度に岡野さん、藤村、私と3人が並んだ状態で、池の谷よりの風を受けていた。風はさらに強く吹いてくる、フィックスザイルを握ったまま、強さに抗しきれず腰を沈め、身を屈めた。今まで強く吹いていた風が急激にピタリと止まったのである。その瞬間、藤村はまるでスキーのジャンプ選手の如くフワッと前方へと浮き上がつた。まさに信じられない光景であっる。藤村は左手にフィックスザイルを握っていた。ザイルがいっぱいまで伸び、身体は引き戻され、空中で1回転してほぼもとの位置に、足から着地してしりもちをついた。岡野さんは伸びたザイルに振られて、1回転して、もとの位置に投げ出されていた。岡野さんは何が起こったのか理解できない様子で、まわりを見ていた。一瞬のことである。2人は無傷であつた。早々にその場を下った。人は想像はるかに越えた出来事に直面した時、笑うものであることを知った。それが例え仲間の死であったとしても。
この出来事は、長い間、私を苦しめた。喉の奥に刺さった小骨のように。時に激しく、次は許さないぞと私に迫った。
恰もそうすることが、経験の浅い者に、冬山厳しさや登山の心得を教えてでもいるかのようであった。
縦走
ここは小窓尾根の2400m地点である。我々は月明かりの中、サポート隊員のエールを受けて、剣頂上に向け出発した。この日の為に、2日沈殿していた。剣は隠れているが早月尾根は月明かりに照らされて、ゆったりとしたその姿を無風の中で見せていた。今日は天気は回復する、冷気の中で実感していた。我々は急ぐともなく飛ばしていた。油断をすると置いていかれそうになる、難なく小窓の頭を過ぎ、小窓王に到着した。小窓王の基部を慎重にトラバースする、ぐっと廻りこむようにしてトラバースを終えた時、眼前の景色はいっぺんしていた。
アルピニストはこの景色を、どう表現するだろうか?オオ、ミステリアス!!とでも。
我々はそそり立つ小窓王の尖塔を背にして、チンネ、ジャンダルム、剣・池ノ谷尾根、の雪を付けた岩峰群に取り囲まれている。静かだ、朝日はまだ届いていない、ここはまだ眠っている。はるか天空から、かすかに風の音が聞こえるだけである。
我々は登るべきルートを追った。あの小さな雪庇が出口だと確認出来た。
ゆっくりと三ノ窓のコルに下り始め、アイゼン先端はしっかりと氷に食い込んだ。これからの登りを暗示するようであった。
三ノ窓のコルは静かで、広い。今日、始めてザックを下ろし休憩した。
我々は計画段階で、次の登りのポイントを雪崩対策に置いていた。対策は2つ、時の選択と登るスピード。時は選択され、2人は今登ろうとしている。
今、小窓隊は2400mのテントで鷲田さんが待機している。早月尾根のサポート隊は頂上のテントを出発してこちらに向かっている。この合宿のテーマは安全なのだ。
我々はザイルを付け登り始めた。幾度となく交替を繰り返し、ただ1直線に、あの出口に向かっていっきに突き進んだ。雪庇を崩し稜線出ても、緊張は取れなかった。
疲労した身体を引きずって、ガスぎみの稜線を歩いていた時、前方の岩陰よりひょっこりと児山さんと藤村が現れた。彼らは右手のピッケルを上げ、ヨッと笑いながら声をかけてくる、まるで杉本町の駅前通りで、偶然会ったかのような仕草だ。二人の緊張はいっきに解けた。我々は早すぎる昼食を囲み、用意してくれたテルモスに入った温かい紅茶を呑んで、心地よい充足感に満たされていた。
その時、我々はガスのかかった剣稜線上で、ぼんやりとほのかに輝く光に包まれていたに違いない。
私はこの40年前の登攀を、今は懐かしく思い出している。岡野先輩はどうであろうか。
厳冬期小窓尾根登攀を読んで(1)
よくぞ無事に生還されたものと思いました。半歩違っていたらドーなっていた分らなかったですね。極限の体験の上に、確固たる現在があるのでしょう。岡野さん、社長就任オメデトウ御座います。と云いましても、社長の仕事は厳冬の登攀と同じくらい厳しく辛いものだと拝察します。山で鍛えた体力と根性で乗り切ってください。
小林 深
厳冬期小窓尾根登攀を読んで(2)
1963年の文字を目にした時、まさか、と思い、おぼろげな記憶を一生懸命繰って見ました。どうやら本当らしいと分かりションボリです。
あの、トツトツとした喋り口のタッチャンがこんな名文家とは知らず御免なさい。それにしても物凄い経験ですね。読むうちに腹の中からこみ上げる恐ろしさに、手足の指先の神経が痛みました。
ほんまに無事でよかったですね!
最後になりましたが、岡野さん、ダイキン工業社長ご就任おめでとうございます。
小倉哲也@メキシコ原住民(小林さんとアネゴがコウ呼びます。Pinche Don Kobayashi!)
厳冬期小窓尾根登攀を読んで(3)
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40年前の記録拝見、本当にすごいまた素晴らしいきろくですね。
岡野、タッチやん、児山、とおーそん、放送局、進藤。みな懐かしい人々。すごい山行をさらりと書いた龍田の文、雪ぴ、突風ナザレ、頂上のお茶、もっと詳しくおもいだして書いてほしい、でも、セビア色の記録も良いものだともかんがえます。せめて、メンバーでも追加してください。
岡野さん、おめでとう、メンバーのみなさんの幸運、と健康をいのります。
やまさん。、
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