厳冬期小窓尾根のこと
鷲田英毅(昭和39年卒)

 ダイキン工業社長に岡野幸義氏内定の朗報が山岳会のメールで飛び込みあわてて、新聞記事を読んだ私はすぐに岡野君あて電話を入れた。
 電話の向こうで彼は『おー、わっしゃんか、久しぶりやなー、、うん、そのことかありがとう、なんとかやらなしゃない。がんばるわ。いっぺん会いたいなー』とあの飄々とした話し振りで、表情が目の前に浮かんできたものだ。
 『久しぶりに昔の仲間で一杯やるか』と私が反応したら彼から出た名前は冬山のメンバー達だった。
 かくして、6月の某日梅田に集まり、深夜まで昔話に花が咲いたのであった。

 小窓尾根サポート隊の思い出は、先に龍田君が執筆されていたように私は小窓尾根隊に加わり岡野、龍田両君の縦走隊をサポートした。縦走隊2名と4名のサポート隊計6名にてルート工作、ボッカをくりかえしながらMピーク直下ドーム2400m地点にAC設営、上部のルート工作をしてアタック体制を整えた。この間の厳しい登攀についてはご案内のとうり。
 2日間の沈殿を経たあと2名は出発した、寒気と、緊張のせいか少しこわばった顔でこちらのエールにうなずき返した両君の眼ははしかし、これから向う本峰越えに対する強い意志を感じさせてくれた。我々4名はMピークの中段をこえて姿が消えるまで見まもった。
 Mピーク、小窓王、三の窓、、、、と彼らの行動を想像しながら頂上からの連絡を今か、今かと待つこと数時間、やがて午後のいつのころか龍ちゃんの元気な声が入ってきてひとまずほっとした。
 次は我々の撤収である。あの偽ニードル、ニードルの下りは容易ではない。実力者の二人はもういない。2年生3人をいかに下ろすか。いろいろ思い寝付かれなかった。
 翌日、ガスの晴れるのを待って撤収開始、クラストした上に新雪が積もりそのうえものすごい強風、案の定この山で最悪の状況での行動となった。雪庇と表層雪崩に細心の注意を払いつつニードル下のポケットに飛び込むことに成功。翌日になり、小窓尾根乗越上部まで龍田、上田両君のサポートを受け無事下山した。

 この年の小窓、早月冬山合宿は市大山岳部の活動にてかなり特筆すべきものであったと思う。
丁度この年第二次ヒマラヤ遠征計画が実行され、常慶、佐々木の2名がこの冬山には参加していない。実力者の2名を欠くメンバーでこの計画を成し遂げたのは部員の層の厚さに、優秀なリーダー陣と4回生、1,2回生の纏まりの良さがあったのだろうと思う。
 尚、岡野君は児山君共々続く春山にも入り卒業式前日に下山、帰阪してぎりぎりまできっちり責務と筋を通したのであった。彼の今後のご活躍を心よりお祈りする。

小窓尾根登攀と私の登山観
 進藤 泰男

 

先日、岡野氏を祝う会があり、久しぶりに昭和30年代後半に共に山を目指したメンバーと再会しました。メンバーがその当時の主力であったことから自然と冬季の小窓尾根登攀のことに話しが及びました。
 思い出す断片的なシーンと皆の話しを総合しながら、たかだか20才を少し超えたメンバーで良くやったなぁと不思議な感慨にふけりました。その中には、よく危ない橋を渡りながら大事に至らなかったもんだ。余程、運が良かったんだなぁという思いも含まれていました。
 たまたま私はその当時リーダーをやっており、当時は他の山岳部も過激な山行を繰返していました。当然、運悪く遭難するパーティも跡をたたない状況でした。
 『冬季に小窓をやる』と決めた時は、さすがに心穏やかではありませんでした。天候が崩れて登攀途中で動けなくなったら、途中の難所で事故が起こしたら、小窓の頭から剣山頂まで疲れた身体で登攀隊は独力でたどりつけるだろうか、途中で食料が切れたら、……日本海側の雪のすごさと重さを考えると、その危惧は当然だったと思います。
 20歳を少し超えた人間が人の命に責任を感じる。それは重い責任感でした。
 でもやりたい。難しいから、自分達なら、このメンバーならやれる。その思いがつのり覚悟は決めました。それでもやろう。でもできるだけ安全は図りたい。出した答えがサポート隊がテント、食料を持ちルート工作を行いつつ、剣山頂を越えて小窓の頭まで迎えに行く、でした。OBの人達には反対を受けました。いわく、山頂を越えてサポート隊が迎えに行くような山行きはない。正しい意見だったと思います。
 でも当時の私には小窓さえ登れたら、あとは危険は犯したくないと思っていました。かなりしつこく抵抗しました。出た結論は折衷案でした。テント、食料は頂上まで。ルート工作は行ってもよい。それで私も納得しました。
 登山計画書も学生山岳連盟に出す段階でOBから反対されタイトルがかわりました。正確には覚えていませんが、『厳冬期の小窓尾根、早月尾根よりの剣岳同時登頂』のような内容でした。修正されたタイトルは次のような内容でした。
 『厳冬期、小窓尾根、早月尾根よりの剣岳連続トレース』
 この時、僕の中で何かが壊れたという意識が残りました。その意識は今も引きつづっています。

 山に登るとは何なのだろうか。何をもとめて登るのだろうか。厳しい登山は果たしてスポーツなのだろうか。
 今も私は山とスキーが好きです。
 山は高くても、低くてもいいです。
 好きな山を、好きな季節に、好きなスタイルで登る。
 生きること、幸せ感、自然との一体化、山はいいなぁと思います。      

                   

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