当会も俊秀を大戦で失ったが、昭和24年、学制改革にともない 大阪市立大学山岳部を創立、商大山岳部の伝統を受け継ぎ、 再び厳しい登山が開始された。
昭和34年までの10年間は北アルプスに我らの足跡を残さざる 所なしの活躍で、無雪期の岩壁、積雪期の剣岳、穂高岳、後立山 連峰にめざましい記録を残し、名門山岳部の評価を内外に確立するとともに、多数の人材を得て「ヒマラヤ初登頂」への気運が熟成
され高まった。
昭和36年、森本嘉一隊長以下6人がネパールの秀峰 ランタン・リルン
(7245) の頂上を目指したが、雪崩のため森本隊長、大島 健司、ギャルツェン・ノルブ氏の三名が遭難した。 だが、この悲運に絶望することなく、さらに厳しい訓練と
合宿が続けられていた。
昭和37・38年の積雪期には笠カ岳東面集中登山、
小窓尾根より 剣岳を経て早月尾根の縦走を完成させた。
昭和39年、鈴木武夫隊長以下7名を再度ランタン・リルンに送ったが、六千メートル台の処女峰ウルキンマンとキュンカピークの二峰に登ったものの悪天候のため目的を達することができなかった。
昭和40年3月には、二十八日間をかけて烏帽子から白馬岳への縦走やその年の12月から1月にかけて、知床半島の羅臼岳から岬までの記録を残している。しかし、この年の八月、部室が火事にあい貴重な文献の殆どを失った。
ネパール政府は国境紛争のため昭和40年より登山を禁止したが、この間も若手を中心とするヒマラヤ研究会は続き、その情熱は脈々と会の内部にエネルギーを蓄積していった。
昭和45年、西ネパールの幻の山、カンジロバヒマール主峰(6882)に常慶和久隊長以下7名の登山隊を送った。平均二十四才、初の日本・ネパール合同登山隊であった。
五ヶ月にわたる苦闘の末、三名が頂上に立ち、大阪市大の健在を印象づけた。
この後、若手OBを中心に、小規模ながら素晴らしい登攀が次々と記録されていった。
小林治俊の関西学生山岳連盟のメンバーを中心とする ゲント峰(7343)
登頂。和田城志の「 剣大滝完登
」および日本山岳会のカンチェンジュンガ峰8000メートル の縦走等があげられる。
昭和53年、伴 明隊長以下9名を三度 ランタン・リルンに送り、二名が登頂
。第一次に二十一才で参加した伴は、三十八才になっていた。まさに執念の初登頂であった。
この頃より、現役部員数の減少が顕著になり、大規模な合宿、海外遠征はむずかしくなったが、山好きな少数の若者達は黙々と山に登り、その実力を鍛えていた。
登山界の潮流も、少人数によるアルパインスタイルの登山が主流となった。泉 隆二郎最高顧問を中心とする実行委員会は、当会の埋もれ、拡散しつつある若手の力を再度結集し、大阪市制百周年を記念して、中国に登山隊を送ることを決定した。
平成元年、広谷光一郎総隊長、佐藤一良隊長以下15名のメンバーを組織、西蔵自治区の未踏峰、四光峰(7308)に派遣した。隊員6名が頂上にたったことは記憶に新しい。
平成9年、宿願であった山岳会のヒュッテが長野県駒ヶ根市の別荘分譲地に、フィンランドより取り寄せた木材で、二階建てのログハウスを建設した。電気・ガス・水道・電話まで完備され、会員およびビジターの利用でアウトドアライフを楽しんでいる。